2012年7月1日日曜日

グレートギャツビー

来年になるが「The Great Gatsby」の映画が上映される。


レオナルド・ディカプリオがギャツビー役をやるのだが、個人的にはちょっとイメージと違う感じがする。
グレートギャツビーは今まで何作か映画になってるが、一番はフランシス・F・コッポラ監督でロバート・レッドフォードがギャツビー役のものだ。



今まで読んできた小説の中で一番読み返した回数が多く、愛着があるので見る事で余計なイメージがつくのが怖かったが、これは良かった。

ただ、やっぱり今までイメージしていたものが崩れたのはいなめない。
それでも僕の中のギャツビーはもう完全に若きロバート・レッドフォードになってしまった。
まあ、大体、頭で思い描いていたものと同じだったというのもある。

ただもう一人の主人公、ニック・キャラウェイ、これはどの作品もちょっと違う感じがする。
もうちょっと不真面目な感じが出ていると僕のイメージに合っている。
サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」のホールデン・コールフィールドはニックがモデルになっているとも言われてるので、もうちょっと斜に構えた雰囲気がほしい。

でもなんでここにきてグレートギャツビーがリメイクされるのかわからんが、予告の動画見ると音楽も何か別にその時代に合わせようと言う意思がなく、3Dだと言うしかなり期待している。

コッポラのバージョンではギャツビーが死んで終わるが、ここで物語が終わったら普通の話だった。
実際初めて読んだ時は、「はいはい、終わった」と言う感じだったが、そこからニックがギャツビーの為に奔走する所にすごく引きずり込まれて、最後なんとも言えない気持ちいい無力感に襲われたのが忘れられない。

グレート・ギャツビーと出会ってから、ちょこちょこそういうの求めて小説は読むが、なかなかあそこまでのは行かない。
もちろん村上春樹で知ったこの小説、29歳の時に読んだのだが、今でもあの時読んでラッキーだったと思う。
だからその時に読まないといけない物語がある事を知ってしまったので、何か取りこぼしてそうな感じが小説を読む動機でもある。

ギャツビーとニックはフィッツジェラルドの人間性が2つに分かれたものだ。
村上春樹がよくやる2つの物語が交互に進む方法は影響をすごく出てると思う。


今、本棚から探してきたらグレート・ギャツビーだけで5冊もある。
一つは英文でこの他にもネットの青空文庫でも読んだ。
10回は読んでるし、部分的にならもっと読んでる。

短編も面白いのが多く。
あまり裏切られた事がない。

ちょっと調べるとこの小説の研究で大掛かりなグループが世界中に点在し、日本でもどこかの大学がやっていて、年に1回開かれる集会見たいなものにわざわざアメリカまで行ってるようだ。

小説の時代は1922年のアメリカだが、どの時代、地域だろうとこの種のせつない思いは変わらないんだろうと思う。

日本の小説で言えば、僕的に太宰治の「津軽」が違う種類のせつなさではあるが近い感じだと思う。

いい小説の出会いはその時の気分、年代、何よりも小説の質とタイミングなどが奇跡的に噛み合わないと難しい。

思い返しては何度もその気持ちに酔える。
寺山修司の言うコントロールできる想像力がないと、人生なんてすぐに恐怖でいっぱいになるのかもしれない。







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