2018年4月19日木曜日

池中玄太に戻る

1月の記事で1日1食を平日に挑戦していると書きましたが、その後も順調にやっています

この前の記事では93kgから87kgになったと喜んでいたのですが、現在はさらに7kg減の80kgになっています。
昔は80kgになった時「池中玄太80kgだなー」と友達と笑っていたものですが、その80kgを今では痩せたと思うのですから恐ろしいものです。

やり始めと比べて、体重が減る量は少なくなってきていますが、少しずつ確実に減っています。
今回この習慣をやってみて10kg減の大台を突破した時はびっくりしたと同時に達成感でいっぱいでした。
そして確実にわかったことは、このやり方で絶対に増えることがないという安心感があります。
土日に多少食べて増えるものの、週終わりの金曜日にはしっかり回収して減っている。
つまりもう体重に関してカロリー計算だとか、糖分だとかを気にするストレスがなくなるのです。

だけど半年で13kg落としたのだから、時間がかかってるといえばかかってる。
今まで朝走ったりして、急激に痩せても、冬場で運動しなくなるからすぐに元に戻っていた。
やっぱり少しずつでしか体重は減らないと言うのもわかったのです。

だけど朝と昼を食べないというのは他の人に聞いてみたらツラいということみたいで、僕は全然ツラくなく、むしろ仕事している昼間に食べ物を入れると眠たくなっていたので、このやり方は個人的にすごく合っていたのだと思います。



一番太った体重で93kgでした。
この体重になると様々な困難が待ち受けています。

まず177cmで93kgでは服の選択肢がグッと狭くなります。
今までLサイズでよかったのが、サイズが合わなくなり、XLとかになるのですが、これだと微妙にサイズが合わない。

そうなると何を着てもつまらなくなるので、だんだん服も買わなくなる。
まあ、もともとそんなに興味がないのでさらに服に対して熱意がなくなってしまう。
年も取ってくるので、鏡を見るのを避けるようになる。
自信も少しずつ削られ、全体的なモチベーションが下がる。

このように太ると言うことは大げさではなく、ゆるやかに死に近く行為だと言っていい。
そのためにはとにかく食べる量を制限しなくてはならない。
こんなシンプルな理屈なのに、習慣というのは恐ろしい呪いのようなもので、ちょっとやそっとではその呪縛から逃れることができない。

まだまだ僕にまとわりつく贅肉のような習慣があるのですが、色んな種類や性格があるので本当に強敵です。。

目標は後5kg痩せて75kgまで頑張って見ようかと思います。
というか1日1食の生活に慣れてしまっているので、もう頑張っているということでもないんですが。

またご報告します。

2018年4月11日水曜日

日高唔郎

このまえ、道民で知らない人はいないくらい有名なラジオパーソナリティ日高唔郎が亡くなった。



去年あたりから、隔週で土曜日は出勤しているのですが、いつも同僚がラジコで日高晤郎ショーをかけるので、たまに耳をかたむけるくらいで流して聞いていた。

レポーターの女性を公開説教をしたり、今かけたばっかりの歌手をけなしたりとやりたい放題。
これが少し若い人が言うのであれば、パワハラだったり、歌手のイメージダウンだったりと問題になっていたと思うが、北海道というローカルで治外法権的な唯一何を言っても許される存在だった。

歯に衣着せぬというのを地でいくとはまさにこの人のことなのだが、スポンサーに対しては気持ち悪いほど商品を褒めちぎるなど、全てが本音のようで演技のようで芸の中に収まっている。

日高晤郎ショーは35年も続いていて、朝の8時から夕方の5時までやっているとてもハードな番組です。
昔は朝なんとなく耳に入ってきた日高晤郎の声が夕方にまだしゃべっているのを驚いたもので、いったいこんなに長く誰が聞くのかと呆れたものでした。

番組の印象として、日高晤郎は「いつでもしゃべっていい」というルールがあります。
例えばスポンサーの商品の宣伝や街角インタビュー、天気予報にいたるまで、ありとあらゆる隙間に割ってしゃべっていいので、レポーターや予報士は常に日高晤郎のツッコミを意識しつつ、本来のインタビューや説明をこなさなければならないので、相当な熟練者でないと対応できない。

あとは日高晤郎に言ったあとには必ず笑い声を盛らなければならない。
この笑い声も「アハハハー」くらに削ぎ落としていないと、進行のテンポが悪くなるので、非常に難しい。

日高晤郎が何を言うのより、好き勝手やっている雰囲気を楽しむのが日高晤郎ショーだったのかもしれない。
いずれにしても彼がいなくなったことは道民にとって非常に大事件で、中には結構やる気や張りがなくってしまった年配の方もおらっしゃるかもしれない。

でも大丈夫。
彼が育てた芦別の天才「よーへい」がいます。




僕は彼を本当にすごいと思っていて、どんな事態も彼一人いればすべてがおさまるところにおさまってしまう。
底抜けに明るく、しゃべりによどみがない。
早くじじいになって何を言ってもいい雰囲気になってもらいものですが、その時は僕もじじいになっているので、どうでも良くなっているかもしれない。

日高晤郎毒舌名言集とか、ブチギレ名場面などの音源があったら即買うんだけど、でないよなーそんなの。




2018年3月25日日曜日

プルーム・テック

どうも!禁煙してから1週間経ちました!


なんとか元の体のペースに戻ったようで調子の方も戻りました。
今回は電子タバコのプルーム・テックのご紹介です!

タバコで体調を崩してしまうけど、どうもあの考え事をするときの一服が心残りだったので、電子タバコの中から、アイコス、グローなどよりももっと優しめなプルーム・テックを遊びみたいな感覚て購入しました。

免許証などの画像をJTに送って待つ事1週間で届きました。


プルーム・テックはタバコの葉が詰まった「タバコカプセル」と水蒸気を発生させる為に固形のグリセリンが詰まった「カートリッジ」そしてそのカートリッジを加熱する「バッテリー」の3部品から構成されています。

充電に90分かかる書いてあったのに15分くらいで充電が終わり、いざ吸ってみてた結果、これはほぼ禁煙パイポのような感じでタバコ独特のグッとくる感じは全くなかった。
完全に失敗したと思いました。

まずコーヒーと全く合わない。
あの紙タバコとコーヒーの相性と言ったらポテトチップスとコーラのように最強の黄金コンビだった。

やはりアイコス、グローなどは葉っぱを直接加熱しているので、まだタバコって感じでしたがプルーム・テックの場合は水蒸気で葉っぱを通過させてるのでやっぱりタバコではないような気がします。



やっぱり元来タバコというのはそもそも葉っぱが燃えなくては意味がない。


通過して来たもの吸うというのは溶けたグリセリンを吸っているという方のウエイトが大きい。

だけど良い点は匂いはほぼゼロだということと、1カプセル0.05mgというニコチンの軽さです。
紙タバコの1mgの半分という非常に体に優しいのです。
それとタールがゼロ。
これは電子タバコ全部そうです。

でもほとんど禁煙パイポみたいなものなのに少しでも体によくない物質が入って来ているのが割りに合わないような、またそれがなければ吸っている意味もないという非常に微妙な感覚です。

とりあえずスターターキットに付いて来た5種類の味を色々試し吸いしていたら、だんだんまあこれはこれでいいのかという気がして来ました。
僕みたいなライトユーザーはこれがちょうどいいのかもしれないと思います。

おそらく面倒になってずっと続けるかはわかりませが、とりあえず今はただ電子タバコというものを楽しんでます。








2018年3月18日日曜日

魅惑の1mgちゃん

一応、タバコをやめてから13年になります。

一応と言ってしまうのは、ここ数年でちょこちょこ人のを貰ったり、時には自ら買ってしまったりと吸ってはきたからです。
なので、常に身近にタバコがあり、毎日必ず吸う状態ではないけど、数ヶ月に1本たまに吸うというのが現状だったのです。

ですが、ここ最近「ついつい吸ってしまっている、いや完全に吸ってんなコレ」というのが続いています。
買うタバコは1mgの一番軽い銘柄何ですが、これを二日に一箱くらいで吸い出したのです。
そして今日この記事を書いている今は禁煙しています。

そう禁煙です。
つまり我慢しているのです。

いつもならやっぱりタバコはマズいで終わるのですが、今回は完全に違っています。
ここまでなっているのは今まで中々ないです。
なので今は喫煙者のゾーンに片足入った状態なのですが、その経緯やメカニズムを振り返って見たいと思います。

まず、最初の1本というのがあります。
ここは最初の出会いともあり、かなり重要な事件です。
僕の場合、世の中に出ているタバコの中でも一番軽い1mgを吸います。
もちろん元々はもう吸っていないのだから、吸った時に一番気持ち悪くならないというのが大前提にあります。
次に「タバコ=悪」という強迫観念から抜ける為にも、一番罪悪感を感じない、人に言われた時も「いや〜1mgだから〜」と言って吸っていない人たちからしたらどーでもいい言い訳を添えることができるからです。





昔は一度の浮気もなくラッキーストライク(12mgだったかな?)を吸い続けてきたので、当時何かのきっかけで1mgを吸った時はほとんど空気を吸っているのと同じ感覚だった。
そんな軽いタバコだからこそ、コレぐらい何だっていうのよ、と誰に半ギレしてるのかわからない、世界一無駄な男気から吸ってしまうのです。

次に今まで人から貰ったり、外で吸っていたものが部屋で吸うようになります。
だけど一度吸うことを絶った人間のほとんどが極度の嫌煙家になっているので、部屋にある衣服や物に匂いを移したくないのです。
だから当然、換気扇を回してその場所で吸います。
ブォーという隣の部屋の住人にも気を使ってしまう大きめの音を上部で出しながら、「こんなところで吸うなんて昔じゃ考えられないけどなー」と頭の中で呟きます。
まだあたかも普段自分は吸っていない側にいる感じを出しつつ。





そしてその次となると換気扇は回すのですが、その場所ではなく僕の場合マックに向かい吸い出します。
こうなってはもう完全に吸っている感じになります。
だけどまだ、まだ灰皿をビールの空き缶にしているとか、本格的にタバコを吸える環境や道具を置いていないという見た目にして、まだ喫煙者ではないという自分に向けての免罪符を発行し続けるのです。





ですがこうなっては時すでに遅し、次についに夜タバコがなくなった時、遊びで吸っている時は無いなら無いで平気なのですが、夜中でも面倒がらず歩いてタバコだけ買いに行くというようになるのです。
ここがおそらく終着地点。
ここまで来てしまうともう完全に吸いたいではなく、無くてはならないという人生の伴侶となりつつあるのです。
欲望から必要、恋から愛などと自分を形成するに当たって無くてはならない存在にまで大きな価値に変わっている。




しかしその蜜月もお別れの時が来ます。
初めはいいのですが、まずは大きい方が下痢気味になり、そのうち便秘になります。
生活のサイクルもいつまでも夜中まで起きてられるようになったり、朝の目覚めも偏頭痛とともに非常にイライラします。



殺人的な眠気が襲い、ガクッと気を失うように寝込んでしまうというのもあります。
つまり生活のリズムが崩れるとどんどん様々なパフォーマンスが下降します。
このパフォーマンスの低下を喫煙者は知らない。
元々低いパフォーマンスを1本吸うことによってその低いところまで戻すということを繰り返すのが喫煙生活なのです。
あとは心臓や肺、いたるところの内臓が時々変な痛さでシグナルを出して来ます。



お金も減るし、体調もパッとしなくなる。
何もいい事がない。
コレがタバコの正体であるものの、あの1本吸っている時の静かな時間を人は忘れられないのです。

そしてそれを味わう為にはある程度吸って、体を慣らさないといけません。
僕が思うその期間は3週間。
3週間毎日吸って、本当に美味しく感じるのは次の4週間目です。
すっかり毒で犯され、体の入れ替えが終わった内臓でないと美味しくありません。

そして冒頭でも書いたように今僕は禁煙中でその4週目の週末というわけです。
つまりもう昔のクリーンな人間では無くすっかりあの魅惑の5分間を知っている体なのです。
もし、今まだたまたま手元にタバコの箱があって1本残っていたとしら、迷いなど1ミリも無く、無駄に養ってきた都合のいい偉人たちの言葉、もっと大きい海のような考えで人生というものを考えろとかいう器のでかさを持って来て、いとも簡単に吸ってしまう事でしょう。





気をつけるポイントはまずはとにかく最初の1本です。
可愛い顔してたたずんでいる1mgちゃんと出会ってしまってはダメなのです。
ましてや部屋に入れてしまうなど言語道断です!





さあ、今僕は耐えています。
コンビニは往復で10分も満たない。
店員に132番と告げるだけで、今夜もあのゆったりとした魅惑の時間を味わえるのです。














2018年3月11日日曜日

張りについて


R-1ってM-1とかキングオブコントとかよりも今一番面白いと思います。

昔はお笑いの大会で一番どうでもいい感じだったけど、よく考えてみれば一人で面白くするのって、二人と比べて面白くするまでの時間がすごくかかるという事に改めて気づかされ、見る目が変わりました。

また、一人芸というのがこのR-1という長年行われている大会によって洗練されていったのだとも思います。
実はまだまだここには笑いのお宝がザクザク眠っているような気がしてなりません。

最近少し読んだ本で「張り」ということの重要性を知りました。
はじめはなんの事言ってるのかピンとこなかったけど、読み進めていくうちに確かにそうかもなと思います。

「張り」とはもちろん見た目の肉体的な張りであったり、若さや気持ちの張りでもそうで、張り合いなんて言葉もある。
「頑張る」なんて字面をみても「頑なに張る」ということですから、外的であったり内的要因に負けないで張りを維持するというふうに読み取っても納得のいくところです。
デザインや絵にしても一流のものはピリっとした心地よい張りがある。

だけどR-1、一人だとその「張り」を跳ね返してくれる対象、つまり相手がいない。
二人ならもう一人が受け止めて2倍3倍にしてくれるけど、一人だと面白い事がどこまでも拾われず空中になくなってしまう。

だからあたかもそこに人がいて「え?なんだって?」のあとに架空の人間のセリフを言って張りを作り、会話しているような感じにするしかない。
もともとR-1のRは落語の頭文字のRなのだから、会話方式という芸がまずありきだから当然です。

張りをどういう感じで維持するかが問題であるならば、会話方式は見ている側にとって見飽きているものなので、相当中身が面白くなくては大きな笑いにならないと思います。
ルシファー吉岡、おいでやす小田、河邑ミク、チョコレートプラネット長田、紺野ぶるま、松本クラブ などは全て100点の面白さだったのだけど、会話形式なのでつきぬけた笑いにはならなかったように思います。

その点、すぐに見ている側との張り合いを出せるモノマネは強い。
お客さんの記憶とすぐに張りができるし、「誰もが知っていて誰もが気づいていなかった」というジャンルほど最強のものはない。
とんねるずの細かすぎて〜シリーズがそうなんだけど、ゆりあんレトリィバァの昔の女優はかなり笑ってしまった。
今までこの人で面白いと思ったことはなかったけど、初めて声を出して笑った。

霜降り明星 粗品のフィリップ芸も絵なのですぐに見ている側とイメージの共有ができる。
当然ボケ数での勝負になるが、僕的には絵を使う行為はよっぽど面白くないと一番にはなれないと思っています。

一番盛り上がったのは決勝最終3組残った時にやったおぐのネタだと思います。
出てきて1秒もかからず見ている全員がわかる一体感の笑いがあった。
あの会場全体が同じタイミングでドッと起こる笑いこそが芸人冥利に尽きると思います。

でも優勝したのは盲目の濱田祐太郎で、彼を見て一番考えてしまうのは、やっぱり「自分がこうだったら」だった。
彼の「ネタ」と「自分に置き換えた時の考え」が線路のように二つ並行にどこまでも進行しながら見ていた。
そしてネタは目が見えないあるあるなので、笑っていいんだか、悪いんだかという面白さと罪悪感の間でユラユラする。

さあ、3人の審査となった時には彼を選ぶのか、選ばないのかということになる。
誰もが違和感を感じながら、また世間のタブーの範囲を推し量りながら考える。

そして純粋に笑いの数ではなく「芸」として見た場合、ここは圧倒的に濱田祐太郎ということになったのだろう。
彼と同じことができるかと考えれば当然「できない」になるからだ。




彼の「張り」は「目が見える人たち」ではなく、あくまでも「普通に見ている人」に対してだ。
でも目が見える側はフラットに見ることができない。
目が見える人が多い世間に対しての「張り」はとんでもなくスケールが大きかった。
共感することで笑いは生まれるのに、共感できない笑いで共感を得ていたし、見ている側を深く考えさせることによって存在の質が無限に深まっていった。

R-1はガチの笑いとは別に一人だからこそどこか滲み出る哀愁も含めて大好きです。

それにしても濱田祐太郎の身一つの動きがない喋りだけで勝負している姿は盲目も含めて本当に美しい。
そして意外と端正な顔立ちなので、見たことないけど自分が男前であるというネタもあり何ではないかなあ。





2018年3月3日土曜日

はは〜系

前回の「荒野のギターソロ」に続いて、また前から気になっていたジャンルの事を書きます。

それは「はは〜系」です。

なんのこっちゃわからないと思いますが、順を追って書きたいと思います。

先日、友人から中国の有名な歴史書である史記の中から一つのエピソードを聞きました。
魏の国に家は貧しいが口が達者だった頭のいい「范雎」(はんしょ)という人がいました。
かなり話ははぶきますが、才能や頭が良すぎる人にはよくある事で、魏の国の宰相(当時で言えばほぼその国のトップ)である須賈(しゅか)からあらぬ疑いをかけられてしまいます。



あばらや歯を折られたあげく、簀巻き(すまき)にされて便所に投げられ、みんなから小便をかけられ続けた。








という地獄のような屈辱を味わった男なのですが、番人にあとで礼をするからと逃してもらい、友人を頼って秦という国に逃げて、そこで権力争いを勝ち抜き、秦の国の宰相までなった。

秦の国は范雎のおかげでどんどん強くなり、やがてむかし屈辱をうけた魏の国を攻めようとしたが、魏は攻められたくないので、かつて范雎を便所に放り込んだ須賈(しゅか)を和睦の使者として送る。

范雎は忘れもしない憎き須賈がくると知って、わざとみすぼらしい格好をして須賈の前に現れた。
驚いた須賈は范雎に今はどうしているかと尋ねると「人に雇われ労役をしている」と聞き、かつて自分がしたことを少し悔いたのか絹の肌着を与えた。




そのあと秦の宰相に謁見しようと緊張して赴いた須賈が会ったのはあのみすぼらしい格好をしていたさっきの范雎であった!

絹の肌着をくれた同情心に免じて命はたすけてやる、だが、お前の王である魏王の首をもってこい!

は、はは〜!!





ということで長々とウィキにのっていることを書いてしまったが、ようは取るに足らない者として扱っていた人間が実はすごい偉い人だったので立場が逆転するというよくある設定の元祖なのではないかというお話です。

この設定を「なんでもない奴が実は〜だった話」というまわりくどい言い方ではなく、なにか呼び名があるはずだと思い、調べたがリサーチ不足かもしれないけどはっきりと出てこない。




だからとりあえず正体がわかった時にひれ伏す様から僕は「はは〜系」と名付けておいているのです。

その「はは〜系」に代表的な話と言えばもちろん「水戸黄門」があげられます。
これは、ただのじいさん→水戸の光圀公ということで、切り替えのスイッチボタンとしてのアイテムは印籠になるわけです。
決め台詞は「この紋所が目に入らぬか!」





そして次に有名なのが、「遠山の金さん」
下町の遊び人金さん→北町奉行。
アイテムは桜吹雪の刺青。
決め台詞は「あの晩、見事に咲いた金さんのお目付け
夜桜を、まさか己ら! 見忘れたとは、言わせねえぞ!!」(長い、、。)





3つめは前の二つと比べ少し劣るが「暴れん坊将軍」
貧乏旗本の三男坊→8代将軍徳川吉宗。
アイテムというか証拠は顔。(前に悪人は城で謁見している)
決め台詞は「愚か者!余の顔を見忘れたか!」
しかし、顔で将軍と同じ人物だという証明はかなり弱い気がする。。



そしてまだまだあると思いきや、どうにもこうにも思い出せない。
こんなもんなのかな?「はは〜系」。。。
何と言っても水戸黄門の印象が強烈すぎて、他がかすんでしまっているのかもしれない。

だけどこの「はは〜系」は使い古されながらも、また、話の展開が途中からわかってしまっても安定した面白さがある。
見ている方はあとからひれ伏すであろう悪人や周りの人間をニヤニヤして眺める。
きっと多くの人は日々こういう「いつか見返してやる」思いでいるのだろう。
そして、いたずらやドッキリ大作戦を主役とともに楽しんでいる。

復讐といってはすこし後ろめたい気持ちにもなるが、だいたいにおいて多くの幸せは勝利からなりたっている以上、敬遠せずに素直に認めたい心の動きだ。

これが水戸黄門の方向でばっかり見ているから気づかないかもしれないけど、長い人生知らず知らずに人に恨みや嫉妬を買い、見返してやりたい対象になっている場合もある。

そこで一番始めの范雎の話に戻るが、敵役である魏の宰相は再会した范雎に同情して、絹の肌着を与えたおかげで、あばらと歯を折り、便所に簀巻きで捨てたにもかかわらず、命だけ取られずに済んだ事を思うと、どんな人にもささやかでいいから温情の証を示しておくことが大事なんだと学びます。

まだまだ思考していけば奥が深そうな「はは〜系」はきっと人生の縮図があると思うけど、これを話す時にやっぱりひとくくりに総称する名前が必要だという思いも深めるのです。
勧善懲悪とも違うし、三幕構成とも限らないし、お約束といっては幅が広すぎる。
おそらくしっくりくるのは復讐劇なのかなー?
でもなんかおおまかにくくりすぎるような気がする。

きっと世界中にはこの「はは〜系」がゴロゴロしているのだと思います。
特にギリシャ神話に多そうだ。
そして多くの話はかなり盛っている。
史記を書いた司馬遷も例外ではない。

ポイントとしては過剰なまでなストレスからの過剰なまでの回収です。
当事者としてはたまったもんでないけど。
いずれにしても冷めた人間では体験できないことです。

他に何かみつけたらまた報告します。
そして見つけたら教えてください。


思い出したけど山下清も「はは〜系」ですね。










2018年2月25日日曜日

荒野のギターソロ

ずっと気になっていたジャンルがあります。

それは「荒野のギターソロ」です。



























昔のハードロックのビデオクリップ(今はプロモーションビデオというのかな)では割とギターリストが何もない荒野でギターソロをひく絵が使われてきました。
今回はその事について一度自分なりにしっかり整理してスッキリしたかったので記事にします。

CDを買う時、消費者としては容姿などよりもまずは音楽そのものが良いものでないと買わないと思います。
ハードロックとかヘビーメタルの場合、アルバムを構成する曲の中で、「ノリのいいキャッチーなもの」そして「珠玉のパワーバラード」の二つが最低入っていないと、売れるアルバムとしてはいけない感じでした。

大体売れたアルバムというのは、こんな条件はあっさりとクリアして、さらに2曲、3曲と合格点の曲が入っており、さらにかっこいいイケメンのボーカルなども魅力アップのオプションとして重要になっていきます。

そしてさらに他と差をつけるならば、超絶テクニックのギターリストがいるかどうかも、勝ち負けの判定条件に加わっていくのです。

売れた勝ち組がある程度の水準まで評価を争った時に意外と「いいギターリストがいるか」で票を決する場合があったのではないかと推察するのです。

Aメロ→Bメロ→サビを2回ほど繰り返したあとにくる休憩時間のようなギターソロ。
実際にライブなどでもボーカルの喉を休めている効果があると思います。
そしてメロディラインとは一線を画した長尺の速弾きによるギターソロにどんどん各バンドが力を入れだしていた傾向がありました。

そこでその過剰な競争はビデオクリップでも出てきて、冒頭では述べたように「荒野のギターソロ」がどのバンドも使いだしたのではなかろうかと思います。

これを最初にやったバンドはわかりませんが、きっとあきらかに受けがよかったのでしょう。
もはや見ている方はなんの違和感もなく、特にカッコイイとも思ってなく、お決まりのものとして見ていたはずです。

まず代表的なものが

エアロスミスのエンジェルです。
動画→ Angel


ギターソロになり、広大な道路の真ん中で人がいるショットからはじまり、


舐めるように空撮からジョーペリーのアップへと短めではあるけど、しっかり「荒野のギターソロ」のお手本のような絵が見られます。

ただジョーペリーのギターソロは全体的な曲から逸脱するような感じではなく、メロディーに沿った聴きやすいものがほとんどです。
過度な速弾きとか、テクニックをみせびらかすことはしません。




次に
ボンジョビのベッドオブローゼス。
動画→ Bed Of Roses



これは荒野ではなく、山の頂きに人影が見えるところから始まります。



そして寄りになると全身黒で身を包んだリッチーサンボラが登場。
荒野のギターソロシリーズの中でも一番壮大な景色が見れます。
多分、山の頂上にもヘリで直接行ったのでしょう。
スケジュールや予算的にも絶対失敗できないので、後で変なカッコ悪さがでないように、サングラスに革のコートで帽子はテンガロンハットにしたのだと思います。
リッチーはジョーペリーよりは自己主張の強いプレイを見せますが、それほどしつこくありません。
あくまでも売りにするのは一貫してボーカルのジョンボンジョビというプロジェクトが揺るぎなかった印象があります。



次はガンズのノーベンバーレイン
動画→ Novemver Rain




このビデオクリップは物語形式となっています。
物語にはなっているのですが、内容はイマイチぴんときません。
とにかくアクセルの結婚式をやっている教会をスラッシュが一人抜け出して横風吹きすさぶザ・荒野で腹をだしながら己のプレイに酔いしれるのです。



この風ではトレードマークのシルクハットをかぶれないのか、さらにいつもしているサングラスもかけず、タバコを吸いながら髪が完全に顔をかぶっているので、ロック界のマスクマンとしての秘密がギリ保たれています。
スラッシュの場合はイジーが抜けた後だったので、戦略的にもこの面白いキャラをより前に出そうとしていた時期でもあり、この荒野のギターソロはこれでもかというくらいアピール度が高い仕上がりになっています。
この曲の最大の見せ場はこの荒野のシーンではなく、後半の曲調が変わるスラッシュがアクセルが弾くグランドピアノの上で演奏するギターソロというのも付け加えておきます。

荒野のギターソロは真剣にカッコつけているから魅力があるわけで、彼らギターリストはバンドのメインギターリストとしてファンのキッズ達からはカッコイイ憧れの存在であらなければならない。
ロックと言えば「エレキギターを弾く」というのがあります。
彼らギターを担当している者たちは、そのかっこいいイメージを寸分も壊してならない責任も負っている。
ロックの代名詞とも言える神の武器ギターを持たされている以上彼らの立ち振る舞いでバンドに入る収益も大幅に違ってくる。
見た目でいったらリーダー格のボーカルの顔立ちやスタイルは非常に大事ですが、テクニックといえば彼らであり、将来バンドを組みたいキッズたちにとってははるかに重要なポジションだと思います。

だけどその失敗は許されないという一貫したビジネスが、荒野でギターを弾くという使い古された安パイを打ってしまうので映像全体の唐突感が半端なく、どこかギクシャクとしてしまいます。
結果、ひいき目で見てもダサ目に映ってしまう宿命を持っています。


最後にこれはちょっと特別なやつを。
シンデレラでドントノウホワットユーゴット。
動画→ Don't Know What You Got



このビデオ・クリップはそもそも全員が荒野で演奏しているので、厳密にいえば唐突に始まる荒野のギターソロとは言えないのですが、荒野のビデオ・クリップとして一番記憶に残っているのがこれです。

まずはメインボーカルのトムキファーがギターではなく、荒野のピアニストで登場します。
海岸沿いのゴツゴツしたところにグランドピアノをおいて一人で歌っている。





ギターソロのシーンでは名前は忘れた日系人(忘れたというか初めっから覚える気がない)のギターリストは使われず、ここでもボーカルのトムキーファーが荒野のギターソロを担当します。
朽ちた木造の小屋の前で気持ちよくプレイしてくれます。
ライブでもギターソロはトムキーファーなので、ギターソロをさせてもらえないヘビーメタルバンドのギターというかなり珍しい存在となっております。

なぜ日系人が採用されていないかというと多分俺が俺がという自己主張の強くないお人好しな性格なのではと考えます。
とにかく彼の顔を見れば納得すると思います。
とても優しそうです。


全てに共通している事なのですが、要はビデオクリップにライブ演奏やスタジオの収録ではとれない開放感や迫力のある絵を入れたかったのでしょう。
それならやっぱり空撮は一番適しているし、どこで使うかと言えば曲の合間に入るギターソロでという感じになってしまうのかな。

荒野にはその字の通り荒々しさ、雄々しさ、スケール感、などなど荒野にさえおいてしまえばそれらがセットでお手軽に見せれる安定感があるのです。

もっと探せばいくらでも出てくると思うこの「荒野のギターソロ」。
収録あとの彼らギターリストたちも拭いきれない違和感を残して帰ったことでしょう。

だけどその黒歴史を背負って演じる彼らに未来への負の遺産を請け負う男らしさを感じるのです。
だから結局彼らは何周も回り回ってカッコいいということで僕の長年のモヤモヤも清算されたように思えます。

日系人のギターリスト以外は。










2018年2月18日日曜日

初 冬キャン

お友達に去年から行こう行こうと計画されていた冬キャンプがとうとう実現した。
場所は苫小牧のアルテン。
ここは通年キャンプができる数少ないキャンプ場で有名なのです。
もちろん電源サイトを利用で冬季間は安く設定されています。



三人で二泊三日と初の冬キャンなのにハードルが少し高めで不安だったけど、振り返ってみれば特に何でもなかった。
お金は札幌から高速代やらガソリン代、食費、場所代など、もろもろぜんぶ合わせて一人1万円3千円くらいでした。
目一杯遊んだと思えば安いもんです。

天候にも恵まれていて、1日目は特に気温が高く、寒いは寒いのですが、起きているあいだは少し物足りなさを感じるくらいでした。
灯油ストーブ2台に電気カーペット、タワー型の電気ストーブ、ガス缶を使った小さいイワタニのストーブとガチガチの暖房装備だったので寒くないのは当たり前なんですが、と言ってもどこまで行ってもテントはテント。
友達のお値段も結構する最高のテントで過ごさせてもらったのですが、建物の壁とかではない所詮は布なので、温めても温めても外からの冷気に少しずつ侵食されているような感じでした。

夕方からはもう寒さで外には出ていられないので、ひたすらテントの中で鍋をほくほく食しつつ、浴びるように酒を飲むのです。
全ての感覚が普段のぬくぬくの生活より研ぎ澄まされているので、鍋もうまいし、酒もうまい。
特に灯油ストーブの上に鉄製のキャンプ専用コップをおいて沸かした熱燗は布一枚で隔てた白銀の世界では格別なものがありました。
おかげ次の日は二日酔いになってしまったが、冬キャンやるなら熱燗はマストだと思います。
歩いて3〜4分ほどの所にある風呂が600円払えば滞在中はいり放題なので、かなり重宝した。
1日目の朝と晩、2日目の朝と晩と計4回も入った。
後になるにつれて、サっとつかって、さっさっと終わらせる感じではいった。
おかげですごく清潔で、特に冬キャンは虫がいないし、汗もかかないので臭いというものに不快になることがなかった。

僕的にキャンプについてはソロキャンから徒歩キャンなど、細かく分類すればあらゆる事を試してきたが、冬キャンは最後の砦だった。

何でも始めのインパクトは強い。
大人になってからのキャンプもテントと寝袋だけで適当にやった初めてのキャンプが一番楽しかった。
冬キャンも二回目はきっと印象が弱まることだろう。
悲しいことにその濃密な遭遇を1回目はわかっていても、その貴重さをあまり気にしないで過ごしてしまう。



小学生の時に作ったかまくらを思い出した。
夕方になると寒くなってきて、暖を取ろうと中で何かを燃やしてえらい事になったのも思い出した。
そんなこっそりと秘密基地のような感じで、いくつになってもちょっと危険な事と楽しさは隣り合わせにあるものだ。

ざっくりいえばアウトドアとは大人の経済力でやる子供の遊びなのです。
余暇とお金、長いこと揃えてきた道具、当日の天気に精神と体の健康状態、これらがある程度安定したところまで達していないと味わえない実に贅沢な遊びです。

冬キャン、楽しいです。
ただし、ガチガチの暖房装備でやった場合に限ります。
暑さはある程度耐えれるけど、寒さは2秒で限界に達します。








2018年2月10日土曜日

ジュジュハウンズ

イジーについて。

アクセル、スラッシュ、ダフマッケイガンの再結成でガンズは十分と先週書いたけど、なんか違和感を感じていた。
残りの二人はイジーとスティーブン・アドラーだが、とくにアクセルの幼なじみでもあるイジーはやっぱりガンズアンドローゼスに欲しい。
だからあらためてイジーについて少し調べていたら、彼がガンズを脱退したあとにソロ名義でだした「イジーズトラドリンアンドジュジュハウンズ」をもう一度聴いてみたくなった。

デジタル音源では見つからずアマゾンでCDを検索したところ、中古で10円で売っている店が出てきた。
送料に440円かかるけどそれでも450円。
注文して愛知県から2〜3日で自宅のポストに入っており、保存状態もかなりよかった。



このCD、高校生の時には2,500円で買った。
2,500円と言えば当時の金銭感覚から言って、1ヶ月は娯楽をこれで過ごさなければならない。
リリースされてすぐ買ったので、このアルバムの前評判などは今の時代と違い、まったくわからない。
ただ、ガンズアンドローゼスのギターリストが作ったアルバムというだけの情報で数少ないお小遣いからゲーム、本、食べ物などなど、いろいろと選択肢があるなかでこいつと心中するのです。

そんな当時の状況を思い出し、今や450円で自宅のポストに入れてくれるこの現状に言葉にならない喪失感を覚える。




そんなおっさんノスタルジーに浸りながら、アルバムを聴いてみると、きっちり全部の曲を覚えていた。
これは「きっちり聴いたCD」という僕の中で一番名誉あるアルバムの称号に当てはまっていた。
何度も何度も聴いた結果、それはアルバムを作ったアーティストを超えて、より個人的な思い入れのある領域まで進化した状態を「きっちり聴いたCD」と名付けている。
というか今、名付けた。
なんかあんまりしっくりきていないが、素直にすぐ出てきた言葉なのでしょうがない。

まだこの称号のCDがあったのかと感慨深いものがある。
こういう過去に聴いた音源はネットで雑にあらかた聞き直していたから残っているとは思わなかった。

僕の中でガンズの名曲はパラダイスシティ、ペイシェンス、スイートチャイルドオーマイン、ドントクライ、ノーベンバー・レインなのだけど、ノーベンバー・レイン以外これらは全てイジーの作曲によるものだから驚く。
思い出したけど、パラダイスシティとペイシェンスを書いたのがイジーだったと雑誌で知ったから期待してこのアルバムを買ったんだ。

だからそんな曲がもう一度聞けるものだと期待していたのだが、聴いてみるとレゲェっぽい曲調や粗めのロックンロールだったのでがっかりした。

そんな残念な初対面だったけど、前述の通りこれしかしばらくは聴くしかないないので、CDラジカセに入れっぱなしで耳を傾けるわけでもなく、ただいつも部屋で流していた。
こういう期待はずれのものだけど、そこそこ付き合うという状態を「カラテカ」と名付けよう。

そういう事をあれやこれや思い出しつつ、今改めて聴いてみると実に新鮮な感じで耳に入ってきた。
高校生の表面だけかじって次にいくような事はもうない。
1曲、1曲丁寧に味わった。
ライナーノーツと歌詞も全部読んだ。
1992年の空気も日に焼けた紙とともに感じることができた。

また何度も聞いた。
風呂に入りながら何度も聞いたが何故だか不思議と飽きない。
うまい蕎麦をつゆをつけずに食べているようで、ずっと聴いてられる。
このしみじみと感じるシンプルさは過剰に新しさを求めていた高校生にはわからないだろう。
やっぱりパラダイスシティを作った才能がチラチラ見え隠れする。

今もう一度、ジュジュハウンズ。
ダサめの名前、ジュジュハウンズ。

当時の荒削りな空気を感じること、またはアペタイトフォーディストラクションはもう出てこないと諦めること。
そのことを「ジュジュハウンズ」という。
もちろん、いま名付けた。










2018年2月3日土曜日

再結成という特権

知るのがだいぶ遅れてしまったが、ガンズアンドローゼスが再結成していた。

この再結成という響きは初期のオリジナルメンバーが結集した時にだけ使われてよいのだと思う。
例えばストーンズのロンウッドが仮に一度バンドを脱退してもう一度加わったとしても、なんとなく再結成という言葉は使いたくない。

そのくらい再結成とは初期のメンバー、厳密に言えば一番売れたアルバムを出した時のメンバーだけに与えられるプレミアムな特権なのです。

ガンズで言えばアクセル、イジー、スラッシュ、ダフマッケイガン、スティーブンアドラーの5人になるが、僕の査定で行けば最悪アクセルとスラッシュだけでなんとなく絵的にガンズと認識してもいいのです。








そして次に欲しいのがシドビシャスのそっくりさんであるダフマッケイガン。
なぜイジーではないかというと当時の映像ではイジーの抜けたあとのものしか見ていなかったということと、イジーは割と地味なリードギターだったこともあり、同じギターのスラッシュが目立ちすぎていたために印象が薄かった。

だから見た目でこの三人が並んでくれさえすれば、もう「ガンズアンドローゼス」という感動は簡単に生むことができた。

感覚的には全日と新日の対決のような夢のカードが見れたというのと同じです。
だけど彼らは50代もなかばくらいなのでこれが動けるラストチャンスとビッグビジネスが裏で動いたのは間違いない。







2018年1月29日月曜日

しめつづけるもの

毎日少しずつ本棚の整理をしているのですが、改めていろいろと買ったなーって思っています。

特に少し分厚い装丁がまあまあ凝っているものなど、すぐに背表紙を見て値段の高さに軽い目まいを起こすのです。

とはいえ身銭を切って買ったものはどうしても買わずにはいられなかった理由があるはずです。
僕の場合は衝動買いというのはほとんどありません。
なので1冊1冊当時どのような理由、その当時の流れや気持ちで買ったかは記憶しているものなんです。





全てにおいて買って無駄だったという後悔はないにしても、読み返すというのはほぼないので、ひたすらアパートの床をしめつける控えめに言ってもマイナスな作用しかないままこの紙の集合体は存在し続けるのです。

そのためにも大江健三郎が唱える本当の読書は二回目というリリーディングを行い、少しでもその罪悪感を軽くしていかないと精神的にもよくない。
だけど適当に本をとって2〜3ページを読んでは目の疲れから軽い頭痛がやってくる。

背表紙をみて値段に目まいを起こして、少し読んでは眼精疲労からの目まいを起こす本とは本当に僕のためになっているのだろうか?

ポールオースターのムーンパレスという小説でおじいさんの遺品にダンボールいっぱいの本がでてきた。
そしてそれはおじいさんが読んだ本の順番通りにハシから収められていた。
それを主人公がおじいさんの読んだ順番と同じように読んでいったらおじいさんの人生を追体験している感覚になったという確かそんな話がある(たぶんいろいろ間違っている)

ポールオースターの小説ではこんなちょっとした味のある小話がよくある。
その中でもこの話は巨大な本棚を見ているといつも思い出してしまう。
自分自身を洗い直すためにももう一度全部読み返しても面白いとは思っているが、多分昔より読むスピードが落ちているので全部読むのに時間にして20年くらいかかりそうです。

とりあえず今2年くらい読んではやめ、読んではやめをしているジョン・アーヴィングのサーカスの息子(上)を1日5ページくらいずつ読み進めているのです。








2018年1月21日日曜日

1日1食

去年の暮れあたりから平日の月〜金だけ1日1食なる生活をしています。
正月は実家に戻り3kgくらい増やして帰ってきたのですが、また1日1食を少し続けたところ2kg落としました。

日数にして42日を実践しましたが、93kg(-.-;) あった体重が現在は87kgになっているので順調な減り具合だと嬉しく感じております。

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3日食べなきゃ7割治る

をダラダラと何となく読んでみたところ、確かにそうだなと納得することがすごくありました。
基本的に現代人は食べ過ぎなのだとようやく理解できた感じです。








とにかく腸をキレイにしておけば全ての病気を防ぐことができるようで、腸が体の器官の中で一番重要だとわかりました。

それまではウンコを通過するホースくらいにしか認識なかったのが恥ずかしい限りです。
今年のテーマは一にも二にも「腸をキレイ」にするなのです。



2018年1月12日金曜日

2018 明けましておめでとうございます

2018年になりブログの更新でもしようかなあと思い、前回アップしたのはいつだったか辿ると去年の4月だった。

昨年からほぼ毎日更新していたブログをやめてしまい、心の片隅にわずかながらの罪悪感をもって過ごしていました。

とはいえ、もともとなんでそんなに一生懸命やっていたのかと思い返せばよくわからず、元来、日記とか誰かにちょこちょこと何かを発信するというのは好きな性格なんだということで納得しています。

昨年の秋にトヨトミの石油ストーブを買って秋も深まる初冬といってもいい時期にソロキャンプに出かけました。





もともとキャンプ用に買ったストーブではあったのですが、家の中でも大活躍で毎日何かしらの調理はこのストーブでしています。



鍋はもちろん目玉焼きやちょっとしたビールのつまみなど焼いていると、毎日がキャンプをしているようで、なんかもう外に行かなくてもこれでいいかなってなるくらい充実しています。

ただ灯油を入れるのと買ってストックしておくのが面倒です。
また気が向いたら更新します。