目を覚ましたのは、チリンチリンという登山客が熊よけにつけている鐘の音でだった。
早い人では午前3時半くらいに出かけて行った。
この人は昨日の夕方に遅くきて、テントで簡単な食事をしてからすぐに就寝していた。
そのあともピークは6時くらいで、次々とチリンチリンと腰につけている鐘を鳴らして、テントの前を通り過ぎて行った。
こんな辺鄙な場所に歩いてキャンプしている僕が言うのも何だが、登山という趣味も相当奇特な行動のように思える。
もし頂上に最高の景色があったとしても、まあ、それだけの事と思ってしまうのは偏見すぎるだろうか。
とりあえず、寝起きのコーヒーを沸かして飲む。
ホタテは結局、頭が痛くて食べれなかった。
この時はスゥーっと痛みが引いていた。
良かった、、風邪とかではなかったんだ、、。
では、一体なにが原因だろうと、思って振り返ってみたら、どうやらニンニクを2玉食べたあたりからおかしくなった事に気付いた。
iPhoneで調べてみると「にんにく 頭痛」の項目でたくさんヒットした。
にんにくの食べすぎによる体調不良や頭痛はよくあることらしい。
以前にも2玉食べた事があるが、何ともなかったから、今回は体調的に相性が悪かったのだろう。
入り口の目の前にナメクジがいた。
実はナメクジって、しっかり見た経験がないように思える。
すくなくても、子供の時見た覚えがない。
かたつむりもいた。
この二匹は非常にスローなペースで移動していた。
僕の視界からいなくなるのに、相当時間がかかるように思えたが、しばらくして再び目を向けると二匹ともいなくなっていた。
まさか見えないところで高速移動したわけでもあるまい。
何となく、時間を有効につかえば大抵の事ができるような気がした。
コーヒーを飲んで、意識がハッキリ戻ってきた。
まだ帰りの汽車までは時間があるので、せっかくだから近くにある半月湖に行ってみる事にした。
山への入り口は人がいなくなって、ひっそりとしていた。
目安となる時間が書いてあるが、頂上まで4時間20分かかるそうだ。
そして火口をグルっと周るとさらに50分。
下山は登りより早いかもしれないけど、2時間強はかかると思う。
そうすると朝早く出ても戻ってくるのは、休憩とかも入れたら午後3時くらいになるかもしれない。
だから早朝3時ごろにあのじいさんは登り始めたのか。
しかも雨が降っていて景色なんか全く見えないのにも関わらず入ってくのだから、本当に別種の生き物と認定していいだろう。
僕は左手の方向にある半月湖に通じる遊歩道を歩いた。
だけど、こうも同じ景色が次から次へと現れると、全く進んでいる感覚がない。
不安になって何度も位置を確認する。
その時、検索ワードで半月湖と入力すると「怪談」というキーワードも出てきた。
最悪だ、、。
この少し気持ちが弱くなってきている時に、自ら追い打ちをかけてしまった。
でもまあ、昼間だし、もともとそんな幽霊だのなんだのは信じていないし。
しかし、どこを向いても湖らしきものは見えてこない。
遊歩道は名ばかりで、細い獣道に近いものがあるだけだ。
やっぱり、帰ろうかな、、。
と思ったその時、
「すみませ〜ん」
ギクーっ!!
後ろからキメキメのランニングスタイルで走ってくる男性が迫ってきた。
「うわ!、あ、は、はいー」と、僕は情けない声を出して道を開けた。
すると「あははー、すみませーん!」と、爽やかな笑いとともに再び軽く謝って、忍者のように消えていった。
ああ、これはたしかトレイルランというヤツだな。
山道を上ったり下ったりと、ほぼ走っていく登山という感じのヤツだ。
走るだけでも辛いのに、こんな未開のような道を行くとは危険だな、、。
それにしても、今回家から旅立って、初めて人から声をかけられた。
声をかけられた事によって、意外と心細かった事がわかる。
恥ずかしいと思う反面、所詮、自分なんてこんなもんだろうと思った。
と同時にあんなに爽やかに笑ってくれたから、ここがそんなに異界の地と感じなくなった。
実は何度も何度も僕の意識をかすめていた、さっきの検索ワード「怪談」は今度こそ気にならなくなった。
遊歩道はうねうねと曲がっていて、なんか近づいてるんだか、遠のいているんだからわからなくなってきた。
でも、ふと左に光が出てきたなと思ったら、湖面が木々の間から見えていた。
あ、あった!
これは確実に半月湖だ。
それからほどなくして、案内図があった。
ああ、よかった、、。
それにしてもここにくるまで、人の手が加わった感じがあまりなかったぞ。。
ここから最後は木枠の階段が設置されていたから、楽だった。
それでもかなり急なところもあって、気をつけて降りた。
着いた。
キャンプ場から40分くらいかかってしまった。
だけど、今回の旅の中でこの時だけ唯一、雲の切れ間から晴れてくれた。
これには少し驚いた。
たまにこういうタイミングのいい事があるもんだ。
全体的に半月湖は神秘な感じがないし、何も特徴的なものがなかった。
ただただひっそりとここに存在しているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
信じられないが、ここは戦前、観光客で賑わっていたそうだ。
鯉の養殖や、貸しボートもあったりしたというから驚く。
今はそんな痕跡は一つもない。
僕はかつてここに家族やカップル達が、キャッキャいいながら楽しんでいる光景を想像してみた。
iPhoneで音楽をかけながら、スケッチを始めた。
1時間くらい描いた。
描いていたといより 、この暖かい陽光のもと、おごそかな空気に包まれて、呼吸をゆっくりとしていたと言った方がいい。
トリップしそうなくらい気持ち良かった。
これはいい。
そして半月湖は美しい。
ただただ美しい。
少しずつ汗も引いていき、途中、蜂が近づいてきたが避けなかった。
刺さないだろう。
絶対に刺さない。
なんといっても僕はもう自然と一体になって、そこらへんの木々と変わりないのだから。
でも念のため、立ち上がってその場を離れた。
ずっと近くを飛んでいたので、さすがに気持ちが途切れた。
ほんとやめてほしい。
絵は失敗した。
あのうっそうと茂る木々をどうやって描けばいいんだろう?
このあともう一度描き直したら少しマシになったが、さすがにこれ以上ここにいるわけにはいかないので、帰る事にした。
ちょうどまた雲が覆って、暗くなってきた。
もちろんこの1時間強、誰もこなかった。
と同時に、先ほど僕を追い抜いていったトレイルランの人がますます奇特な人に思えた。
帰り際もう一度、かつてここが人が多く集まる観光地の風景を想像してみた。
だけどなぜか、どうやっても無理だった。
なんだか急に僕と湖の関係が途切れたような気分になる。
よく見れば、なんの魅力もない水たまりだ。
これはきっと、うまく描けなかった事による気分からくるものだと思う。
再び、40分くらいかけてキャンプ場に帰ると、テントは僕のを残して一つも無くなっていた。
確かに時間はもう午前9時近かった。
けっこう疲れたので、汗をぬぐってシャツを取り替えてから、テント内で横になった。
少し寝よう。
そして何となく寝に入る前に半月湖の怪談を今なら知ってもいいと思い調べた。
親の反対により心中した恋人同士がいたとか、そういうベタなものを期待したら、知らないゲームのアイテムで「半月湖の怪談」というのがあるらしい。
やっぱりあそこには何にもないのだ。
確かによくも悪くもそういった怪しさはなかった。
まあ終わってみれば、少しは怪しくしろとすら思うようになった。
続きます。