2016年9月28日水曜日

優勝!!!!!!

とりあえず、よかった、、。



大谷というか、途中から西武がシラけ始めた。

母さんに電話したら、もちろん見ていたが余計な世間話が延々と始まって、説教になりそうなところで切り上げた。

中田打ってほしかったなー。






2016年9月27日火曜日

ガラスペン

小樽でガラスペンを買ってしまった。




台座も含めて3,500円くらいしたのだが、半永久的に使えると店員さんに勧められて、つい衝動買い。

日本人が開発したペンだが、今回買ったこのペンは安価なイタリア製。
現在日本でも二人しか作ることができないそうで、工芸品と実用品のちょうど中間あたりの感じがします。

ただ、買うとき6本ある中から試し書きをして選ぶ。
1本1本手作りなために、どれも微妙に形が違うので当たり外れがあるらしい。

購入したペンはしっかり選んだはずだが、どうも漫画用のインクだとすぐ詰まって書けなくなります。
だからたまに水で少し薄めて使ってやらないとダメなのですが、これが当たりなのか、外れなのかがわからない。
まだこのペンの扱いが慣れていないのかもしれない。
インクがよく出ている間は均一な線が引けてすごく書きやすいですが、出ないときはどうやっても出ないので、結構ストレスを感じます。

テレビで日ハム戦を、終わってからソフトバンク戦をラジオで聞きながら描いてた。
結果は残念でしたが、明日はこの人できっと優勝するでしょう。







2016年9月26日月曜日

ガロ

小樽美術館って今年は初めて来たかもしれない。

と言っても、この日は併設されている文学館の方に用事があったのです。


「ガロと北海道のマンガ家たち」







ホワイトの修正が入った原画とか、今までのガロがズラっと並んでいます。
昔のガロはほとんどカムイ伝の雑誌と言っていいくらい、本の半分以上がカムイ伝だった。

というか、白土三平がカムイ伝の連載のために立ち上げた雑誌だったというのを今初めて知った。
設立者本人だから、当然原稿料はゼロ。
他社にカムイ外伝とかワタリなどを連載してスタッフを養っていたというから、メジャー誌ではほとんどタブーな共産的マンガをどうしても制限されることなく描きたかったのだろう。

ここに展示されている作家のほとんども原稿料ゼロで描いていた。
全てとても丁寧に描かれている。
ただ雑誌に載るというだけでここまで情熱を捧げられる時代だったというか、すがるモノだったのだろう。
ガロに載ったというだけでアンダーグランド的な名誉も得られた事も確かだった。

でも、僕はあんまり訳わかんない漫画は嫌いです。
誰もが理解できていたけど、盲点だったような事に気付かせてくれる漫画、というか世の中全般の作品が好きです。
村上春樹とかそうだなって思ったりします。
つげ義春も大好きです。

小樽文学館、こういうの頑張ってもっとやってほしいです。
300円です。

高いけど後日10月23日にあがた森魚と鈴木翁二のトークショーもあるようです。















2016年9月21日水曜日

朝のなだめ

昨日、姪っ子と一緒に寝たとき、子供の体温の高さに驚いたと書いたら、それを見た兄が姪っ子に伝えた所、何でか僕が姪っ子と一緒に寝て迷惑だったという風に解釈してしまい、ギャン泣きしたらしく、どうにも収まらないので、早朝兄から誤解を解いてほしいと電話が来た。

これはヤバイ…、、。

2分くらい必死に電話の向こうにいる姪っ子をなだめた。





























「だから〜●●(僕)は〇〇(姪っ子)の事が大好きなんだよ〜」
を何度も連呼して、かぼそい返事をもらい何とかその場を収めた。

誤解というのは100%晴れるものではない。
それが幼い子供なら尚更だ。
僕もそうだった。
どんなに大人が弁解しようとも、しこりは残った。
そして大人になって、すべて理解した今でも何だか釈然としないものが残っている。
きっと理屈ではなく、その時の支配した感情のインパクトが強烈だからなのかな。
記憶というものは決して言葉では残っていない、感情や視覚による原風景で残っているのだ。


だけど、まあ、少しは防げたと思う。
危ない、危ない、久々に朝から焦ってしまった。
早朝に兄が電話をかけてくる事自体、ただごとではないと思っていたので、確かにただごとではなかったのだが、まだ朝の意識がハマっていない不完全な僕が徐々に落ち着きを取り戻してくると、結局、誰かが事故を起こしたとか、母さんが倒れたとかいうのではなく、大した問題ではなかったと少し安心した。

しかし、インターネットでの言動は気をつけなければいけないが、女性、さらには子供に支配される世の中になっているのだと改めて認識した。

細心の注意は払う必要があるが、誰かの事を文章にする場合、全てに責任を負う覚悟がなくてはならない。







2016年9月20日火曜日

熱い

兄家族が我がアパートに二泊していった。

最後の晩、下の姪っ子がどうしても一緒に寝るときかないので、じゃあ一緒に寝るかと軽い気持ちで請け負った。





だが、子供の体温ってこんなに熱いもんだと知らなかった。
血の巡りがいいのか、本当にでっかい熱源体そのものだ。

生命としてのパワーは圧倒的に姪っ子が上であって、僕は半分死体のように感じた。


2016年9月17日土曜日

初山別 みさき台公園キャンプ場

友人と少し前に初山別のみさき台公園キャンプ場に行ってきた。


札幌からちょっと遠いのですが、高速ても少し遠く感じた。

目的は二つあって、夕日と展望台。







日が沈みそうになったので、海岸を小走りで急ぐ。
厳島神社のように海岸に鳥居が立っている絶景があるのです。


すでにカメラを構える小僧だったり、他、数名がもう集まっていた。








見事間に合った。
台風一過の後なので完璧な夕日。




後ろには崖に作られた鳥居がある。
すごい雑に作られたコンクリートの階段を登れば、お賽銭が無造作に散らばっていた。





























その崖の鳥居から左に夕日、中央に海岸に作られた鳥居、そして右の奥にうっすら見える利尻富士を写真に収める。

これでご利益がないとは言えない。
きっと良い知らせがこの後あるでしょう。








夜になり、歩いて7〜8分の丘の上にあるでっかい望遠鏡の天文台に行く。
人も多く、混んでいて、覗くのにしばらく待った。
だけど覗いても何とか星雲がゴミのような白いかたまりが見えただけで、期待はずれだった。
もっと土星とかはっきりみえるのかと思ったが、展示室の写真を見ると、そういうのも見えるのです。
だったら、「遠くの何とか星雲が見えてすごいでしょー」より、月でも何でもハッキリしたものを見せて欲しかった。



テントに帰ってきて、草むらに寝転がると、満天の星空。
そして天の川がはっきり見えた。
実は初めて見た。
本当に川のように薄く白い。
こんなに綺麗な星空は見た事ない。
周りから届く光が少ないからなのかなあ、だから天文台もあるわけだ。




帰って熱燗とアテの魚を焼いたりして少しまったり。
そして早めに就寝。














朝も快晴だった。
変な朝の宗教番組をラジオで聞いていてたので、バックに流れるBGMがほどよくトリップさせてくれる。
小一時間スケッチをした今回はうまくいった。















ここ、初山別キャンプ場は最高にいい所なんですが、札幌から少々遠いので、少し運転に疲れます。
でもここはずっと来たかった場所なので、やっと願いが叶った。
天気予報が快晴だったので、絶対ここに来たかったのです。

















2016年9月15日木曜日

夏の思い出 1

今年は夏らしい事を結構したなって思います。



この時のただ暑かったけど、今ではだいぶ涼しくなってきたので、寂しくなっている。



兄貴の車の助手席で撮ったまっすぐな道。
ここの道は何度も通っているので、見飽きているのだが、
後ろに乗っていた姪っ子たちがジェットコースターだー!とはしゃいでた。

思えば、僕と兄貴もこの道で父さんのディーゼル車の中でジェットコースターだーって騒いでいたのを思い出し、変わらないなと思いつつ、そう言ってしまうわなとも思った。

父さんも調子にのって、少しスピードを出してくれた。

それにしても時間がたってもジェットコースターって言葉は古くならなかったんだな。
この感じを何という?とい言われて「ジェットコースターのよう」という形容動詞として完全に定着している。
音の響きも申し分ない。





奥に網走湖が見えるこの坂の景色が大好きです。
隠れスポットなので、知っている人だけ知っている場所。






母さんがスーパーのイカを一匹さばいてくれた。
風鈴がちり〜んとなって、贅沢なひと時だったが、この時はそんな事を思わなかった。
ああ、イカが出てきたなくらいなもんで。



絵を描くのに少し疲れたので、コンスタンチノープルの続きはまた後にします。
まあ、あとは滅びるだけなんで、、もういいかな、、。
でも、もうちょっと描きたい部分もあります。











2016年9月14日水曜日

ステルス機能

コンスタンチノープルが少し収まりつかなくなってきたので、今日は小休止。


カープも優勝してしまい、キャンプもしているので書くことは溜まっているのですが、なんといっても今は日ハムです。

最近、レジェンドシリースでこのデザインでは今季2度目の復刻ユニホームなのですが、僕はこのユニホーム時の日ハムは調子が悪いような気がして心配です。

デザインはどっしりとベーシックな感じで好きなんですけど、なんといっても昔このユニホームの時の日ハムはあまり強くなかったので、負の遺産からのマイナスパワーを受けているのような気もしてしまいます。

そう思っていた時に、最近、少し科学的にわかった部分があります。







それはこの腰から足にかけて入っている赤いラインです。
もともとこの野球ユニホームのラインは選手の鍛え抜かれた肉体が視覚化して好きなんです。

ですが、昔ロッテがラインの入ったユニホームを着用していた時、ミスターコントロールの異名を持つ小宮山が、あのラインがあるから投げる方のピッチャーは境界線がハッキリして投げやすくなると言って、オーナーの方に話を持ちかけたそうです。

実際、ロッテはラインを無くしてから打線は復活した。

そっかー、それなら、






このように、下のグランドの茶色と芝の緑を組み合わせて、さらに上半身は後ろのフェンスの黒に近い色にすれば、境界線がなくなり相手ピッチャーは投げにくくなるのではないか。

ここまであからさまでなくても、少し似せた色でステルス機能を推奨します。

ぜひ日本シリーズに向けて急いで作って欲しい。
というか、早く前のユニホームに戻してくれ。










2016年9月13日火曜日

コンスタンチノープルの陥落 15

オスマントルコ帝国の船は完全に静まり返っていた。

キリスト教徒側は、ジェノバ人の希望通り、初めに決行する予定だった日より四日後の夜半に船を出した。

先頭の大船二隻に続いて、ガレー船も二隻、40人の漕ぎ手が一糸乱れぬ櫂の動きで音を立てずに進む。

さらに動きの速い快速船が大船に隠れるようについていき、その両脇と背後には松ヤニや硫黄や油などの可燃物を満載にした小舟が何艘もついていく。






出港直後にガラタの塔で何か一つ閃光に似た光がきらめいた。









トルコ軍への信号かと思ったが、トルコ艦隊には少しも変わった様子はない。

船団は前進を続ける。

作戦としては密かに敵艦隊に近づき、可燃物を敵船に投げ込み、それに火をつけた後、敵船の錨を切って逃げる事だった。

仮に戦闘になっても四隻の大型船が充分にその力を発揮する段取りだ。



しかし



敵船に接近したその時、突如、岸から大砲の火が吹いた。










轟音は間髪も置かず、次々と鳴り響く。

次々と大砲の弾が小型船に命中する。
可燃物を積んでいたので見る間に火だるまとなり、沈没していく。
これはもう海戦ではない、岸から固定された大砲の弾が届く限り、陸上戦と同じになった。

大型船も無傷ではなく、何発も砲丸を受け、帆柱は吹き飛ばされ、船長のトレヴィザンや多くの船員が備え付けの小舟で命からがら逃げ出した。

撃沈した船の乗組員たち40人がトルコ兵の待ち構える岸に泳ぎ着いたが、メフメト二世は、その全員を陸側の城壁から見えるところまで引きずり出し、残虐なやり方で殺させた。

この敗戦によりヴェネチア人はジェノバ人の裏切りだと断定する。
なんといっても、ジェノバ人が住む居留区のガラタの塔で光による合図があったからだ。
そして四日も決行日を先延ばしにした理由も、船の用意ができないからではないように思えた。

これはこの戦争が終わった後にトルコ側から少しでも、良い条件で存続を願うジェノバ人の策略だったかもしれない。

それでもジェノバの居留区からはその後も何度か救援物資が運ばれてきたり、自ら戦うつもりで防衛軍に志願してくるガラタの住民が一段と増したりした。
ヴェネチアの船が砲撃を避けて居留区に逃げ込んでも、かくまってくれたりもするようになったので、ジェノバの中でトルコ派とキリスト教徒側にかなり別れていたのだろう。

そのような事もあって、ヴェネチア人とジェノバ人はお互いに非難の口を閉ざすようになる。
幸福も人々の心を開くのに役立つが、不幸もまた、同じ役目をする事もある。


この話は、負ける事を分かっている戦いについて語られる物語で、バッドエンドなのはわかっていて読むものなのです。

それにも関わらず、読んでいて、どっか勝つのではないかと思ってしまっている自分がいました。

逃げまどい、破壊され、殺されるだけの話を負ける側に立って淡々と知っていくという行為は、いつもどこか救われる多くの話と違って、自分の都合のいいようにことが運ばないという哀愁がある。

というか、世の中にある魅力あるお話というのは、必ずモヤモヤした解決されないものを読者に植え付ける。

結局、悲しいことを求める我々の余裕ある娯楽なのかもしれない。

この後、海側を制したオスマン帝国はこれから満を期して、陸側の三重の壁を叩きに叩きまくるのです。























2016年9月12日月曜日

コンスタンチノープルの陥落 14

オスマントルコ帝国に金角湾が奪われると、海側の壁は1枚しかないコンスタンチノープルは一気に形勢を決められるようになってしまう。

過去に一度だけコンスタンチノープルは西側の同じキリスト教徒の十字軍によって占領されたことがあるが、それは金角湾を奪われて海側から侵入されたからなのです。

だからオスマントルコ帝国の船団がまだ準備し終える前に奇襲の案をヴェネチア側は皇帝に持ちかける。
相手は何と言っても海戦が苦手な相手なのだ、急な対応にバタバタするに違いない。

皇帝もその作戦には賛成してお願いするが、ヴェネチア側は隠密かつ敏速に事を運ぶ為に、この作戦にはヴェネチア人だけで構成したいという事も言ってきた。




決行日は明日の24日の夜に決まった。

だけど、どこから漏れたのか、その作戦がジェノバ人の耳にも入り、彼らは大勢でトレヴィザンの元にやってきた。
そして海戦において自分達をのけ者にするとは何事かと訴えてきた。





















皇帝の方も兼ねてから、ヴェネチアとジェノバは仲良くしてもらいたいし、平等に扱うよう気を配っていたので、ジェノバ人の要望を認める。

トレヴィザンとしても皇帝の願いをしりぞける権力はないので、渋々ジェノバ人も船一隻とともに参加する事を決めた。
一歩引いて、兵は多いに越した事はないのが何よりもの理由だ。


しかしその日の午後になってジェノバ人の船乗りたちは適当な船が日没まで用意できないと言ってきた。
だから四日後の28日まで決行を延期すように主張する。











ヴェネチア人は一刻の無駄も致命的な時だから、当初の予定通りヴェネチアだけで決行すると怒り狂った。
だが、頑固なジェノバ人も猛反発して、話は進まなくなり、時間もいたずらに過ぎていくので、結局日付をずらし、奇襲作戦は四日後の28日となる。

陰謀というのは知る人の数が増えれば増えるほど、また決行日が延びれば延びるほど、露顕の可能性も高まるのです。

この時、こんな緊急時になぜこんな事になってしまったのか。
それもこれも先の海戦で大手柄をあげたヴェネチア、ジェノバ共々、歴史ある眠っていたプライドが目を覚ましたかもしれない。


塩野七生さんはヴェネチア人が好きだから、ついついジェノバ人には否定的になってしまうっぽいが、これは僕でもジェノバ人に腹が立った。

それにしても四日はひどい。






2016年9月9日金曜日

コンスタンチノープルの陥落 13

オスマン帝国皇帝である21歳の若者は、海戦での手痛い敗戦を挽回するだけでなく、一気に優勢に持って行く方法はないかと考えた。


陸上側の外堀は、ほとんど埋め立てられていて、連日の大砲の攻撃により三重の壁の一番外側もほとんど破壊していた。

そこで一度、西側にいる不正規兵の一部をジェノバ居留区の近辺に呼び寄せた。






まず、行われたのは海岸から山へ向かう道を整備する事から始めた。
もともと、そこには人馬が通れるくらいの道があったが、入念に地固めがなされた。




地固めが終わると特大の木の板を敷き詰め、




その上に木製の軌道を作る。
兵士たちは少しサイズが大きいが大砲を運ぶものだと思っていた。





その上に金属製の荷台を取り付ける。
この荷台を取り付けたところでメフメト二世は自ら指揮をとって、軌道の下に欠落がないか何度も入念に調べた。

この時、セルビア兵の隊長であるミハイロヴィッチも一作業員として従事してた。
メフメト二世がそばにいたので、一度謁見している自分を覚えているかと意識したが、そんなセルビアの若者などに王は眼にも止めない。
彼の関心は軌道の出来具合だけだった。



次に命令された作業は誰しも信じられないものだ。

木製の軌道には動物の脂をまんべんなく塗られ、車輪付きの荷台に海中から引きずりあげた船が乗せられた。





それを左右に並んだ牛の群れで引き、船は人によって押したり引いたりして移動し始めた。





ガラタの丘の上の最も高い地点は、海抜60メートルは充分にある。
頂きに向かって押し上げた船は、そこで漕ぎ手を乗せ、上り坂と同じように作られた下り坂の軌道を伝って、金角湾の中へ滑り込む仕掛けになっていた。





これが世の言う「オスマン艦隊の山超え」であり、おそらく、日本人が本能寺の変を誰しもが知っているように、ヨーロッパの人たちでこの歴史的事件を知らない人はいないと思う。
この事業が成功した時、トルコ兵だけでなく、不正規兵として働かされている属国のキリスト教徒の間からも拍手や歓声が起こった。

戦争をしているというよりは、何か愉快な遊びがうまくいった雰囲気が支配した。

七十隻に及ぶ船がおもちゃの船のように次々と金角湾内に滑り込んだ。
驚いたのはもちろん東ローマ帝国側の兵士たちだ。
海戦での大勝利でまとまりかかった多方面の人々が、再びこんな事をさせて気づかなかった事に責任のなすりつけあいが起こる。

だいたい、ジェノバ居留区のジェノバ人が気づかないのがおかしい。
中立とは言っても何らかの情報を伝える術があるはずだ。
だけどこの作業の間も陸からの攻撃や海側からの大砲、ガラタ居留区付近での盛大なトルコ行進曲の演奏などで全くわからなかったらしい。

だが、ヴェネチア人である海軍総司令官トレヴィザンはこの想像外の出来事にも冷静に判断して、まだ全てのトルコ船が金角湾に進水する前に攻撃を仕掛ける作戦会議を開こうとした。

しかし、全てはビザンチン式にゆったりと行うのが習性になっている宮廷の返事は明朝開催するというものだった。

と言う風に、なんでも即決で行動を移せる専制君主側と、法律で縛られている国の行動のスピードが戦争では致命的な差が出る。

この前見た映画、シン・ゴジラに対する日本の首脳陣を思い出してしまうが、いずれにしても、こんな事をやり遂げてしまうのは一にも二にも、トップにいるメフメト二世がすごいと思わざる得ない。

結局、彼はオスマン帝国の兵士たちからその政治手腕を信頼されていた、と言う事だと思うし、東ローマ帝国の皇帝も民に慕われていたが、なんとなく48歳と21歳の将来に対する生命力の差を感じてしまう。

今回、僕もこの山越えの絵を描くとき、ネットであらゆる資料をできるだけ集めたが、はっきりとした絵がなかったので、細かい部分はほとんど想像で描いた。
塩野七生さんの本の説明では木の板はなく、木のレールだけだったけど、描いている最中に、何百トンとある船を引き上げるのに、どう考えても木の板がないと無理なような気がして描いてしまった。

しかし、船を運ぶために、船より大きい荷台を作るなんて発想がすごい。
これは今回、オスマン帝国がウルバンの8メートルもある巨砲を運ぶ技術から発展したものだと言うから、この戦争中にもドンドン最新鋭の発明が生まれていた証拠だ。

ローマ人の物語でも僕がいつも注目してしまう箇所は、こうした昔の人たちが作り上げる建造物だったり、今とあまり変わらないインフラ整備のところです。

塩野さんはそう言った物がどうやって造られたか、と言うところを自ら現地に行って、自分の目で確かめて、あらゆる資料に目を通しているので、面白い。

そのものづくりのプロセスを知ることで当時の人たちの考え、行動規範がわかる。
そして読者は言葉だけでなく、体感的にその時代の空気を把握できる仕組みになっているのです。









2016年9月8日木曜日

コンスタンチノープルの陥落 12

戦いは地上だけではない、海の方でも同時にオスマン帝国軍は攻撃を開始した。

金角湾の入り口にコンスタンチノープルとジェノバ居留区を結ぶ鉄の鎖に沿って、キリスト教徒の艦隊は壁を作って待ち構えた。






戦力は

キリスト教徒側

 ジェノバ大型船         5隻
 クレタ船            3隻
 アンコーナ船          1隻
 ビザンチン帝国大型船      1隻
 ビザンチン帝国のガレー船    2隻
 ヴェネチアのガレー船      2隻
 ヴェネチアの商用大型ガレー船  3隻
 戦力にならない小型船      15隻

 合 計 32隻



オスマン帝国側

 ガレー船 12隻
 大型船  80隻
 輸送船  25隻
 小型船  30隻

 合 計 142隻


という風に海側でも完全にオスマン帝国の数が上だった。

コンスタンチノープルに住むビザンチン人は常に西欧人の言う数より多くて、敵は300隻から400隻と騒いだそうです。

西側のカトリック教徒は西のローマ帝国が滅びて、一旦キリスト教というものが解体されているのもあるし、元々はローマ帝国のクレバーな性格が残っているので、行きすぎた夢想には走らないが、東ローマ帝国の正教徒側は割と神の奇跡を信じている言わば時代遅れの考えが蔓延していた所があった。

このように、全ておいて現実的な西欧人と何でも大げさに言う東側のギリシャ人では意見が合わないのは当然なのかも知れない。


しかし、船の大きさではオスマン帝国をキリスト教徒側は圧倒していた。
まず東ローマ帝国の味方をしているヴェネチア共和国、ジェノバ共和国、どちらとも海洋国家なので、海の戦いにおいてはトルコ軍とは比べものにならなかった。

数は少ないが、ジェノバの大型船5隻は1,500トン級を2隻、続いて700、400、300がそれぞれ1隻ずつ鎖に沿って並べられた。

さらに200トン級のヴェネチア勢の船も並ぶが、ここはチームワークのヴェネチア共和国と個人主義で一発勝負を好むジェノバ共和国の商売の仕方が表れていた。

ここで少し思う事は1500トンの船なんてこの時代どうやって作っていたのだろう?
作ったとしてもそれを海に入れるのはどうやったのかなあ。
それにそんなデカい物作って浮く事はもちろん計算に入ってたのだと思うと、数学も相当に発達していたんだろう。

戦いはキリスト教徒側が圧勝した。
何と言っても船がデカいので上からの矢の命中率がかなり正確だった。
それに鎖の封鎖を解いて、ヴェネチアの船が攻勢に出て行っても、オスマン帝国軍は操作技術で全く歯が立たなかった。
オスマン帝国軍としては船を近づけて、連結し、兵士を相手側の船に送り込むことによって陸上戦に持ち込みたいので、鉤(かぎ)のついた綱を投げて船べりに引っ掛け、船を引き寄せようとする。
さらに燃える火のついた矢を無数に射ったりもした。

しかし熟練されたジェノバの船乗りたちは、船べりについた鉤のついた綱は素早く切ってしまい、火災も彼らの訓練の行き届いた動きで消し止められた。
オスマン帝国軍の大砲も全く当たらなかった。
それどころか味方に当ててしまう始末で、何においても海ではキリスト教徒側の足元にも及ばない。
その後、例のハンガリア人ウルバンに性能のいい大砲を数日で設計させて作らせてからは、キリスト教側も損害を受けて、行動が慎重になった。







この後、この戦いの前に東ローマ帝国の皇帝が籠城に備えてシチリアへ食料を調達していた大型船が金角湾に入ってこようとした。

その船の数わずか4隻で、その4隻にオスマン帝国軍は100隻を超える船で対抗したのに負けた。
原因はやはり船の性能と海戦での技術だった。
弾薬や武器、食料を満載に持ってきた4隻は無事コンスタンチノープルに到着すると、皇帝は停泊したばかりの船に乗り込み、激戦を終えた人々に一人ずつ賞賛と感謝の言葉をかけて回った。
コンスタンチノープルの住人が、大歓声をあげて喜びで狂わんばかりになったのは、この何年もなかった事だった。

海戦で負けた若いメフメト二世の怒りはものすごいもので、天幕にはお気に入りの小姓一人の他、誰も入れなかった。

そして彼はこの後、歴史上に残る誰もが考えもしなかったとんでもない行動に出る。
























2016年9月7日水曜日

コンスタンチノープルの陥落 11

攻城戦。

孫氏の兵法書では「防御に徹する守備側を攻略することは容易ではなく、
攻城は下策で最も避けるべきと述べられている。

確かに素直に考えて、上にいる敵を下から戦うのは本当に不利だと思う。
まず上にいる方は視界も開けているし、重力の力も加わるので少しの体力で下からくる相手に対して何倍もの戦闘能力を発揮できる。


ここでよく城を攻める方はハシゴをかけて登るのだが、上にいる方はこのハシゴを押し返してしまえばいいのでは?という意見がある。
でも実際にはハシゴの先にはカギ状の爪が壁の隙間に引っかかり、なおかつ大勢の兵隊が登ろうとするので体重が乗って外れないようだ。

それでも上から、油をかけられて滑ったり、大きい石を何度も投げられるので多大な被害を受ける。
だから序盤は攻城塔という




このようなやぐらを作って城壁より上から兵士をどんどん送り込む。
だけどこの攻城塔を作るのはすごい時間がかかって、壊されたりもするので、局地的なところではやはりハシゴをかけて攻めたのだと思います。


コンスタンチノープルの3重の壁は地上最強の城壁だったので、攻める方としては、他の攻城戦とは比べようにならない相当な被害を覚悟しなければならない。

そしてさらに壁の外には深い堀が掘ってあるのです。
だからオスマン帝国としての初めの仕事としてはこの堀を埋める事から始まった。






だけどその間も大砲による攻撃は続けられる。

オスマン帝国はまず第一に大切なのは最新鋭の武器、大砲。
その次に運搬用の牛。
牛より価値がないものが不正規兵だった。

だから堀を埋めている兵士が大砲によって吹き飛ばされようが、せっかく作った土台が壊れようが、お構いなしに作業は進められた。
そして死んだ兵士は無造作にそこらへんに捨てられて土台の一部となる。

そんな人を人とも思わないメフメト二世による兵士の扱いを東ローマ帝国の兵士はなすすべもなく壁の向こうから見るだけだった。















2016年9月6日火曜日

コンスタンチノープルの陥落 10

さて、コンスタンチノープルが攻められようとしている間、東ローマ帝国側はもちろん、様々な対応に追われていたのです。

皇帝の方はメフメト二世へどうか攻めないで欲しいと密使を何度も送ったが、答えはノーだった。
もちろんタダでとは言わない、多額の年貢金を毎年収めるとも言ったのだが、返事は皇帝がコンスタンチノープルを去る事だった。
だけどもし去るのであれば、残った臣民の命は保証すると言うものだ。
皇帝は屈辱を受けて腹たったが、一応、再び年貢金の増額を申し出たがメフメト二世の返事は同じだった。

オスマン帝国の軍隊が近づいているとの報告が日増しに増えて行くと、連日行われている東ローマ帝国首脳会議の回数も多くなっていった。

だけど、助けに来た西欧のヴェネチア人はギリシャ人が嫌いだった。
何故かというと、こんなに国が危機迫っているというのに、まだ宗教談義で熱く意見を交わしているからだった。
実際、若い修道士なんかは即戦力になり、国を守るために戦わなければならないはずだだ、戦わないのです。
何をやっているかと言えば、お祈りであって、よくこんな事が許されると思う。
本当に何でだろう?
そのぐらい国全体が宗教を基盤として成り立っている証拠かもしれない。

こう言うギリシャ人にしても西欧のヴェネチア人をいいように思っていなかった。
自分の国でもないのに、守ってやっていると事あるごとに言われるが、何の事はない、自分たちの商業利権を守りたいからと言うのはあからさまにわかっていた。



























カトリック教会のイシドロスは何度も西と東を往復して、キリスト教統一の話を進めたが、東ローマ帝国の宰相ノタラスが大反対してぶち壊した。
これには過去に西欧のキリスト教十字軍がコンスタンチノープルを乗っ取ったという恨みがまだ根深く残っているので、仕方がない部分があります。

ヴェネチア人とジェノバ人も仲が悪かったが、皇帝はどちらの立場も考えて、海軍総指揮にヴェネチア人のトレヴィザン、陸軍総指揮にジェノバ人のジュスティアーニを採用して場を収めていたくらい、すごく気を使って全く威厳などなかった。

オスマン帝国はメフメト二世の専制君主の元、全てがシンプルに物事が進んでいったが、東ローマ帝国はとにかく、東ローマ帝国、ギリシャ人、ヴェネチア人、ジェノバ人、カトリック、正教会、などなど、様々な分裂要素から全くまとまりがなかった。

ここでこの地図を見てもらいたい。コンスタンチノープルから金角湾を挟んで、対岸にあるのが、ジェノバ人だけが住んでいる特別区域のジェノバ居留区だ。




ここはオスマン帝国にも東ローマ帝国にも味方はしないとする中立を宣言していた。

だけど、東ローマ帝国との間に鉄の鎖を敷いてしまった為に、メフメト二世に何度も使者を送って、東ローマ帝国が勝手にやった事だとか、説明に奔走していた。


だから東ローマ帝国の会議室の本音は

























ということだった。

コンスタンチノープルが陥落したら、自動的にジェノバの居留区も滅ぼされるのに、何を中立などとほざいて粘っているのか。

実際、東ローマ帝国が滅亡した後、サクっとメフメト二世に占領された。

何世代もその土地に住み着いているので、どうしても動かない人たちが多かったのが理由だが、最もコンスタンチノープルにしても、ジェノバ居留区にしても、頭のいい裕福層はこうなる何年も前から資産を西欧に移して逃げてしまっていたのです。







2016年9月5日月曜日

コンスタンチノープルの陥落 9

オスマン帝国の軍は大きく分けて「正規兵」、メフメト2世直轄の「イエニチェリ軍団」、そして属国や奴隷からなる「不正規兵」からなる。

この前、記事にも取り上げた属国の哀れなセルビア兵達も不正規兵としてコンスタンチノープルという要塞を始めて見た。






誰もが息を飲むほどその威厳に満ちた巨大都市に驚くというが、彼らセルビア王国の兵士とて同じ気持ちだった。

こうなったら、数多くの武勲をあげて戦争が終わったあと、セルビアとオスマン帝国をできるだけ対等な立場に持っていきたい。
セルビア兵の隊長であるミハイロヴィッチはメフメト二世による様々な無礼を忘れて、新たに気合を入れていたが、








メフメト二世の命令が飛んできた。

「馬は捨てろ、全員歩兵になれ」


彼ら騎兵団は幼い頃から馬術に関しては修練に修練を重ねてきたセルビアのエリートだ。
ミハイロヴィッチも今回の戦いで、国を代表する選りすぐりの騎兵を揃えてきたが、馬を降りれば兵卒と何ら変わりない戦闘能力になる。

おまけにトルコのように重い防具もはずされる。

「あと、馬は殺して、お前らの食料にしろ」

今まで遠い祖国からここまで自分たちを運んでくれた愛する馬を殺され、さらにそれを食えをという。

彼らオスマン帝国は遊牧民族の流れを組むので、羊の肉は食べるが馬は絶対食べない。
殺した馬の肉は羊の皮袋に入れられ、キリスト教国の参加兵用の肉として金角湾に沈めて貯蔵された。






馬から降りた1,500人の騎兵は歩兵となり、従属してきた騎兵1人に対して歩兵と従僕1人も合わせると4,500人の歩兵となった。

いや、歩兵というよりこれから始まる攻城戦の虫けらのように蹴落とされ、チリのように吹き飛んでいく特攻隊部隊となったのである。

この話も将来ミハイロヴィッチが残した回想録に書いてあったのだと思うが、こんな地獄の環境ってあるのだろうか?

そんな一人の人間の憤りなど、なんの価値もなかったんだろう。
今の世の中だって、ちょっと道を外れればこんな環境はなのかも知れない。










2016年9月2日金曜日

コンスタンチノープルの陥落 8

今回はとうとうコンスタンチノープルにオスマン帝国が攻めてきた時の状況です。































ちょっと、この絵を描くのに疲れてしまって、文章の方に余力が残っていないのですが、こういうのはいくら文章で言っても伝える事が出来ない。

まずオスマン帝国の兵の配置なんですが、最前線に不正規兵を置いています。
これは昨日の記事でも書いたセルビア兵とか属国のだまされた兵と略奪に目がくらんで志願してきた兵も含む混合部隊です。
その数5万。

そしてその後ろにオスマン帝国正規兵であるアナトリア軍団がいて、不正規軍団を挟む形で配置されている。
これは捨て石に使う不正規兵が逃げ出さないようにする為で、前方の東ローマ帝国の兵士よりも後ろの正規兵が怖くて半狂乱のように不正規兵を前に突っ込ませる事となる。
この数も約5万。

さらに一番後ろはメフメト二世直轄のイエニチェリ軍団。
この軍団は奴隷のキリスト教徒の子供をを幼い頃から育て上げ、イスラム教に回教させて、妻帯も禁じさせている。
1万5千しかいないが、言わば完全なる戦闘マシーンなのであって、もちろん勇猛果敢で戦闘能力はズバ抜けて高く、不正規兵が全員ヤムチャだとすると、彼らは一人一人がベジータだと言っていい。

次に海に目を向けると、東ローマ帝国は金角湾の入り口にジェノバ居留区のガラタの塔と鉄の鎖で結びオスマン帝国の船を侵入させないようにした。

このジェノバ居留区というのは微妙な立ち位置にある部分で、どちらの側にもつかない中立を宣言している。
この都市の本国はイタリア半島の西にある海洋都市で、ここに居留区を作る事によって交易の富を築いていた。
キリスト教徒が多く住み、歴史も長く何世代にもわたって暮らしているから、オスマン帝国が脅威といえども、おいそれとこの土地を手放せないのです。
だから鉄の鎖でコンスタンチノープルと繋がっているとしても、それは東ローマ帝国が勝手にやった事と体面上はしている。
だけど、ジェノバ本国からは東ローマ帝国に数は少ないけど兵士を送っているので、本国と我らジェノバ居留区は考えが違いますとオスマン帝国に何度も使者を送って見逃してもらっているのです。
だけどそんな努力もむなしく、もちろんコンスタンチノープルが陥落した後はメフメト二世によって占領されます。


だけど絵を起こしてみて、改めてこんな要塞があったという事に驚く。
海に面した側にも城壁を築き、陸側には三重の壁でぐるっと囲むこの都市ってどんな感じだったのだろう。
なぜだか知らないけど、こんなガチガチに守られた都市に住んでみたいと思う。
最大の繁栄を誇った時には人口40万人いたという。
これは当時の都市の人口としては最大の過密度をだった。
「都市の女神」とも謳われた美しさは、海面から漂う朝もやとともに人が作ったものながら実に自然で神秘的な絶景だったそうです。


ここから2ヶ月、この1100年続いた美しい女神をオスマン帝国はぶっ壊しまくります。

以前にも書いたけど、ヨーロッパとアジアをどこで分けると言ったら位置的にもここになる訳で、黒海の出入り口であり、北はロシア、南はアフリカと 争いごとが起きる事は始めっから決まっていた地球の急所のような所だったのです。

21歳のメフメト二世が「あの都市が欲しい」と言ったのは有名な言葉ですが、国の繁栄というよりも、無邪気に欲しがった面が多くあると思います。















2016年9月1日木曜日

コンスタンチノープルの陥落 7

属国(ぞっこく)

この言葉はしばしばさげすんだ感じで使われるが、当時のセルビアはまさにオスマン帝国のそれだった。

オスマン帝国が西へ西へと領土を広げていく中、セルビアは何度もオスマン帝国に敗れ、王女をオスマン帝国に嫁がせて、何とか体裁を保っていたが、事実上いいなりになるしかない状態だった。

ある日、メフメト二世からセルビアの王へ反乱するトルコ人の鎮圧に援軍要請がきた。
戦う相手はトルコ人であってイスラム教徒である。
キリスト教国家のセルビアの王にとって断る理由はなく、快く1500の兵を送った。
というか、送るしかなかった。
属国というのはしっかりとした定義はないが、基本的に半分いいなりになるしかない立場だ。

22歳であるミハイロヴィッチは隊長として出向いた。
連れて行く兵の選出も任されたので、彼はセルビアきっての精鋭である騎兵団を選んだ。
セルビア騎士の強さを見せて、少しでも優位な立場にするチャンスでもある。




しかし、トルコのアドリアーノポリに着いてもミハイロヴィッチは城内に入ることも許されず城外で天幕を張って1ヶ月も待たされる。
そして軍の隊長であるミハイロヴィッチはメフメト二世と会うことすら許されない。

僕はこの本で取り上げられたこのミハイロヴィッチにすごく感情移入してしまった。
遠路はるばる1500の兵を連れてきたのにこの冷遇は本当に悔しい思いをしていたはずで、情けなかったと思います。
1500の騎士にはそれぞれ歩兵一人と馬や身の回りを世話をする従僕も連れているので、人間の数で言えば4,500人もの男が外でずっと野宿していた事になる。

そしてようやっとミハイロヴィッチはメフメト二世に謁見できたが、その時言われたのが

「コンスタンチノープルを攻める」

であった。


今や貧しい国となったセルビアにしてみれば、反乱したイスラム教徒と戦う聖戦だから援軍を差し向けたという立場的には友好国で来たのに、同じキリスト教国家を攻めろと言われたのだから約束が違う。

「反乱軍を鎮圧すると聞いていましたが、、」

「順番が違うだけだ」

と2歳下のメフメト二世はそれだけ言って去ってしまう。

ここで異議でも唱えようなら城外で待たしている自分に付き添ってきた者たちは皆殺しにされてしまう。
トルコ軍の容赦のない仕打ちは痛いほど知っている。
逃げたとしてもきっと追いつかれるし、何よりそのままセルビア本国が滅亡してしまう。

ミハイロヴィッチは城外で待つ兵士たちにリーダーとしてその屈辱を伝える。

だけどそれに抗議する者は誰もいない。

属国の兵士とはどんな最悪なケースもただ受け入れる心構えができている。
歴史にはこう言った悲しい物語が多数存在するが、彼らはセルビア復興というわずかな希望を捨てきれずに東ローマ帝国に剣を突き立てるのです。




このセルビア軍兵士を思うと切なくなる。

僕だったらどうしよう?

まず、同じキリスト教国家を攻めるというプライドも捨て去られ、1ヶ月以上も待たされた尊敬する隊長への屈辱的な仕打ちを彼についてきた兵士はどう処理すればいいのだろう。

コンスタンチノープルが陥落した後、メフメト二世は「順番通り」セルビアを攻め落とす。

コンスタンチノープルの戦いで生き残ってセルビア本国に帰っていてたミハイロヴィッチはトルコ軍と戦うが捕虜になり、何とイスラム教徒に回教する。

そしてメフメト二世の親衛隊であるイエニチェリ軍団に入り、8年間トルコ軍として戦争に明け暮れる。

その後トルコ軍はハンガリア軍と戦った時、劣勢に立たされ、トルコ軍であったミハイロヴィッチは囚われてしまうが、彼はそこでハンガリア軍に降伏して、またキリスト教徒に戻る。
だけどもうセルビアという祖国はなくなっていたので、ハンガリア軍として各地を転戦した。
その時書かれた「回想録」の中にコンスタンチノープルの陥落の事も書いてあって、貴重な当時の資料となった。

この時、彼はもう60歳を超えていたというのだから、戦いに明け暮れた兵士でもこうやって長生きする人もいたんだと少し驚いた。

だけど、まだこの時彼は22歳。
メフメト二世はセルビア兵たちへコンスタンチノープルを攻める前に忠誠心を図るために、トルコ軍の本隊に先行してコンスタンチノープル周辺の村を襲撃するように命じた。

それは彼らの最後に残しておいた騎士道精神をも捨てろと言うことです。
でも、思うに、メフメト二世は知っていた。
そういう西欧のプライドや価値観が一番邪魔なのだと。
悔しいことだが、大局を見る優れた政治手腕とも言えるのです。