この言葉はしばしばさげすんだ感じで使われるが、当時のセルビアはまさにオスマン帝国のそれだった。
オスマン帝国が西へ西へと領土を広げていく中、セルビアは何度もオスマン帝国に敗れ、王女をオスマン帝国に嫁がせて、何とか体裁を保っていたが、事実上いいなりになるしかない状態だった。
ある日、メフメト二世からセルビアの王へ反乱するトルコ人の鎮圧に援軍要請がきた。
戦う相手はトルコ人であってイスラム教徒である。
キリスト教国家のセルビアの王にとって断る理由はなく、快く1500の兵を送った。
というか、送るしかなかった。
属国というのはしっかりとした定義はないが、基本的に半分いいなりになるしかない立場だ。
22歳であるミハイロヴィッチは隊長として出向いた。
連れて行く兵の選出も任されたので、彼はセルビアきっての精鋭である騎兵団を選んだ。
セルビア騎士の強さを見せて、少しでも優位な立場にするチャンスでもある。
しかし、トルコのアドリアーノポリに着いてもミハイロヴィッチは城内に入ることも許されず城外で天幕を張って1ヶ月も待たされる。
そして軍の隊長であるミハイロヴィッチはメフメト二世と会うことすら許されない。
僕はこの本で取り上げられたこのミハイロヴィッチにすごく感情移入してしまった。
遠路はるばる1500の兵を連れてきたのにこの冷遇は本当に悔しい思いをしていたはずで、情けなかったと思います。
1500の騎士にはそれぞれ歩兵一人と馬や身の回りを世話をする従僕も連れているので、人間の数で言えば4,500人もの男が外でずっと野宿していた事になる。
そしてようやっとミハイロヴィッチはメフメト二世に謁見できたが、その時言われたのが
「コンスタンチノープルを攻める」
であった。
であった。
今や貧しい国となったセルビアにしてみれば、反乱したイスラム教徒と戦う聖戦だから援軍を差し向けたという立場的には友好国で来たのに、同じキリスト教国家を攻めろと言われたのだから約束が違う。
「反乱軍を鎮圧すると聞いていましたが、、」
「順番が違うだけだ」
と2歳下のメフメト二世はそれだけ言って去ってしまう。
ここで異議でも唱えようなら城外で待たしている自分に付き添ってきた者たちは皆殺しにされてしまう。
トルコ軍の容赦のない仕打ちは痛いほど知っている。
逃げたとしてもきっと追いつかれるし、何よりそのままセルビア本国が滅亡してしまう。
ミハイロヴィッチは城外で待つ兵士たちにリーダーとしてその屈辱を伝える。
だけどそれに抗議する者は誰もいない。
属国の兵士とはどんな最悪なケースもただ受け入れる心構えができている。
歴史にはこう言った悲しい物語が多数存在するが、彼らはセルビア復興というわずかな希望を捨てきれずに東ローマ帝国に剣を突き立てるのです。
このセルビア軍兵士を思うと切なくなる。
僕だったらどうしよう?
まず、同じキリスト教国家を攻めるというプライドも捨て去られ、1ヶ月以上も待たされた尊敬する隊長への屈辱的な仕打ちを彼についてきた兵士はどう処理すればいいのだろう。
コンスタンチノープルが陥落した後、メフメト二世は「順番通り」セルビアを攻め落とす。
コンスタンチノープルの戦いで生き残ってセルビア本国に帰っていてたミハイロヴィッチはトルコ軍と戦うが捕虜になり、何とイスラム教徒に回教する。
そしてメフメト二世の親衛隊であるイエニチェリ軍団に入り、8年間トルコ軍として戦争に明け暮れる。
その後トルコ軍はハンガリア軍と戦った時、劣勢に立たされ、トルコ軍であったミハイロヴィッチは囚われてしまうが、彼はそこでハンガリア軍に降伏して、またキリスト教徒に戻る。
だけどもうセルビアという祖国はなくなっていたので、ハンガリア軍として各地を転戦した。
その時書かれた「回想録」の中にコンスタンチノープルの陥落の事も書いてあって、貴重な当時の資料となった。
この時、彼はもう60歳を超えていたというのだから、戦いに明け暮れた兵士でもこうやって長生きする人もいたんだと少し驚いた。
だけど、まだこの時彼は22歳。
メフメト二世はセルビア兵たちへコンスタンチノープルを攻める前に忠誠心を図るために、トルコ軍の本隊に先行してコンスタンチノープル周辺の村を襲撃するように命じた。
それは彼らの最後に残しておいた騎士道精神をも捨てろと言うことです。
でも、思うに、メフメト二世は知っていた。
そういう西欧のプライドや価値観が一番邪魔なのだと。
悔しいことだが、大局を見る優れた政治手腕とも言えるのです。
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