金角湾の入り口にコンスタンチノープルとジェノバ居留区を結ぶ鉄の鎖に沿って、キリスト教徒の艦隊は壁を作って待ち構えた。

戦力は
キリスト教徒側
ジェノバ大型船 5隻
クレタ船 3隻
アンコーナ船 1隻
ビザンチン帝国大型船 1隻
ビザンチン帝国のガレー船 2隻
ヴェネチアのガレー船 2隻
ヴェネチアの商用大型ガレー船 3隻
戦力にならない小型船 15隻
合 計 32隻
オスマン帝国側
ガレー船 12隻
大型船 80隻
輸送船 25隻
小型船 30隻
合 計 142隻
という風に海側でも完全にオスマン帝国の数が上だった。
コンスタンチノープルに住むビザンチン人は常に西欧人の言う数より多くて、敵は300隻から400隻と騒いだそうです。
西側のカトリック教徒は西のローマ帝国が滅びて、一旦キリスト教というものが解体されているのもあるし、元々はローマ帝国のクレバーな性格が残っているので、行きすぎた夢想には走らないが、東ローマ帝国の正教徒側は割と神の奇跡を信じている言わば時代遅れの考えが蔓延していた所があった。
このように、全ておいて現実的な西欧人と何でも大げさに言う東側のギリシャ人では意見が合わないのは当然なのかも知れない。
しかし、船の大きさではオスマン帝国をキリスト教徒側は圧倒していた。
まず東ローマ帝国の味方をしているヴェネチア共和国、ジェノバ共和国、どちらとも海洋国家なので、海の戦いにおいてはトルコ軍とは比べものにならなかった。
数は少ないが、ジェノバの大型船5隻は1,500トン級を2隻、続いて700、400、300がそれぞれ1隻ずつ鎖に沿って並べられた。
さらに200トン級のヴェネチア勢の船も並ぶが、ここはチームワークのヴェネチア共和国と個人主義で一発勝負を好むジェノバ共和国の商売の仕方が表れていた。
ここで少し思う事は1500トンの船なんてこの時代どうやって作っていたのだろう?
作ったとしてもそれを海に入れるのはどうやったのかなあ。
それにそんなデカい物作って浮く事はもちろん計算に入ってたのだと思うと、数学も相当に発達していたんだろう。
戦いはキリスト教徒側が圧勝した。
何と言っても船がデカいので上からの矢の命中率がかなり正確だった。
それに鎖の封鎖を解いて、ヴェネチアの船が攻勢に出て行っても、オスマン帝国軍は操作技術で全く歯が立たなかった。
オスマン帝国軍としては船を近づけて、連結し、兵士を相手側の船に送り込むことによって陸上戦に持ち込みたいので、鉤(かぎ)のついた綱を投げて船べりに引っ掛け、船を引き寄せようとする。
さらに燃える火のついた矢を無数に射ったりもした。
しかし熟練されたジェノバの船乗りたちは、船べりについた鉤のついた綱は素早く切ってしまい、火災も彼らの訓練の行き届いた動きで消し止められた。
オスマン帝国軍の大砲も全く当たらなかった。
それどころか味方に当ててしまう始末で、何においても海ではキリスト教徒側の足元にも及ばない。
その後、例のハンガリア人ウルバンに性能のいい大砲を数日で設計させて作らせてからは、キリスト教側も損害を受けて、行動が慎重になった。

この後、この戦いの前に東ローマ帝国の皇帝が籠城に備えてシチリアへ食料を調達していた大型船が金角湾に入ってこようとした。
その船の数わずか4隻で、その4隻にオスマン帝国軍は100隻を超える船で対抗したのに負けた。
原因はやはり船の性能と海戦での技術だった。
弾薬や武器、食料を満載に持ってきた4隻は無事コンスタンチノープルに到着すると、皇帝は停泊したばかりの船に乗り込み、激戦を終えた人々に一人ずつ賞賛と感謝の言葉をかけて回った。
コンスタンチノープルの住人が、大歓声をあげて喜びで狂わんばかりになったのは、この何年もなかった事だった。
海戦で負けた若いメフメト二世の怒りはものすごいもので、天幕にはお気に入りの小姓一人の他、誰も入れなかった。
そして彼はこの後、歴史上に残る誰もが考えもしなかったとんでもない行動に出る。
その船の数わずか4隻で、その4隻にオスマン帝国軍は100隻を超える船で対抗したのに負けた。
原因はやはり船の性能と海戦での技術だった。
弾薬や武器、食料を満載に持ってきた4隻は無事コンスタンチノープルに到着すると、皇帝は停泊したばかりの船に乗り込み、激戦を終えた人々に一人ずつ賞賛と感謝の言葉をかけて回った。
コンスタンチノープルの住人が、大歓声をあげて喜びで狂わんばかりになったのは、この何年もなかった事だった。
海戦で負けた若いメフメト二世の怒りはものすごいもので、天幕にはお気に入りの小姓一人の他、誰も入れなかった。
そして彼はこの後、歴史上に残る誰もが考えもしなかったとんでもない行動に出る。
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