2018年3月25日日曜日

プルーム・テック

どうも!禁煙してから1週間経ちました!


なんとか元の体のペースに戻ったようで調子の方も戻りました。
今回は電子タバコのプルーム・テックのご紹介です!

タバコで体調を崩してしまうけど、どうもあの考え事をするときの一服が心残りだったので、電子タバコの中から、アイコス、グローなどよりももっと優しめなプルーム・テックを遊びみたいな感覚て購入しました。

免許証などの画像をJTに送って待つ事1週間で届きました。


プルーム・テックはタバコの葉が詰まった「タバコカプセル」と水蒸気を発生させる為に固形のグリセリンが詰まった「カートリッジ」そしてそのカートリッジを加熱する「バッテリー」の3部品から構成されています。

充電に90分かかる書いてあったのに15分くらいで充電が終わり、いざ吸ってみてた結果、これはほぼ禁煙パイポのような感じでタバコ独特のグッとくる感じは全くなかった。
完全に失敗したと思いました。

まずコーヒーと全く合わない。
あの紙タバコとコーヒーの相性と言ったらポテトチップスとコーラのように最強の黄金コンビだった。

やはりアイコス、グローなどは葉っぱを直接加熱しているので、まだタバコって感じでしたがプルーム・テックの場合は水蒸気で葉っぱを通過させてるのでやっぱりタバコではないような気がします。



やっぱり元来タバコというのはそもそも葉っぱが燃えなくては意味がない。


通過して来たもの吸うというのは溶けたグリセリンを吸っているという方のウエイトが大きい。

だけど良い点は匂いはほぼゼロだということと、1カプセル0.05mgというニコチンの軽さです。
紙タバコの1mgの半分という非常に体に優しいのです。
それとタールがゼロ。
これは電子タバコ全部そうです。

でもほとんど禁煙パイポみたいなものなのに少しでも体によくない物質が入って来ているのが割りに合わないような、またそれがなければ吸っている意味もないという非常に微妙な感覚です。

とりあえずスターターキットに付いて来た5種類の味を色々試し吸いしていたら、だんだんまあこれはこれでいいのかという気がして来ました。
僕みたいなライトユーザーはこれがちょうどいいのかもしれないと思います。

おそらく面倒になってずっと続けるかはわかりませが、とりあえず今はただ電子タバコというものを楽しんでます。








2018年3月18日日曜日

魅惑の1mgちゃん

一応、タバコをやめてから13年になります。

一応と言ってしまうのは、ここ数年でちょこちょこ人のを貰ったり、時には自ら買ってしまったりと吸ってはきたからです。
なので、常に身近にタバコがあり、毎日必ず吸う状態ではないけど、数ヶ月に1本たまに吸うというのが現状だったのです。

ですが、ここ最近「ついつい吸ってしまっている、いや完全に吸ってんなコレ」というのが続いています。
買うタバコは1mgの一番軽い銘柄何ですが、これを二日に一箱くらいで吸い出したのです。
そして今日この記事を書いている今は禁煙しています。

そう禁煙です。
つまり我慢しているのです。

いつもならやっぱりタバコはマズいで終わるのですが、今回は完全に違っています。
ここまでなっているのは今まで中々ないです。
なので今は喫煙者のゾーンに片足入った状態なのですが、その経緯やメカニズムを振り返って見たいと思います。

まず、最初の1本というのがあります。
ここは最初の出会いともあり、かなり重要な事件です。
僕の場合、世の中に出ているタバコの中でも一番軽い1mgを吸います。
もちろん元々はもう吸っていないのだから、吸った時に一番気持ち悪くならないというのが大前提にあります。
次に「タバコ=悪」という強迫観念から抜ける為にも、一番罪悪感を感じない、人に言われた時も「いや〜1mgだから〜」と言って吸っていない人たちからしたらどーでもいい言い訳を添えることができるからです。





昔は一度の浮気もなくラッキーストライク(12mgだったかな?)を吸い続けてきたので、当時何かのきっかけで1mgを吸った時はほとんど空気を吸っているのと同じ感覚だった。
そんな軽いタバコだからこそ、コレぐらい何だっていうのよ、と誰に半ギレしてるのかわからない、世界一無駄な男気から吸ってしまうのです。

次に今まで人から貰ったり、外で吸っていたものが部屋で吸うようになります。
だけど一度吸うことを絶った人間のほとんどが極度の嫌煙家になっているので、部屋にある衣服や物に匂いを移したくないのです。
だから当然、換気扇を回してその場所で吸います。
ブォーという隣の部屋の住人にも気を使ってしまう大きめの音を上部で出しながら、「こんなところで吸うなんて昔じゃ考えられないけどなー」と頭の中で呟きます。
まだあたかも普段自分は吸っていない側にいる感じを出しつつ。





そしてその次となると換気扇は回すのですが、その場所ではなく僕の場合マックに向かい吸い出します。
こうなってはもう完全に吸っている感じになります。
だけどまだ、まだ灰皿をビールの空き缶にしているとか、本格的にタバコを吸える環境や道具を置いていないという見た目にして、まだ喫煙者ではないという自分に向けての免罪符を発行し続けるのです。





ですがこうなっては時すでに遅し、次についに夜タバコがなくなった時、遊びで吸っている時は無いなら無いで平気なのですが、夜中でも面倒がらず歩いてタバコだけ買いに行くというようになるのです。
ここがおそらく終着地点。
ここまで来てしまうともう完全に吸いたいではなく、無くてはならないという人生の伴侶となりつつあるのです。
欲望から必要、恋から愛などと自分を形成するに当たって無くてはならない存在にまで大きな価値に変わっている。




しかしその蜜月もお別れの時が来ます。
初めはいいのですが、まずは大きい方が下痢気味になり、そのうち便秘になります。
生活のサイクルもいつまでも夜中まで起きてられるようになったり、朝の目覚めも偏頭痛とともに非常にイライラします。



殺人的な眠気が襲い、ガクッと気を失うように寝込んでしまうというのもあります。
つまり生活のリズムが崩れるとどんどん様々なパフォーマンスが下降します。
このパフォーマンスの低下を喫煙者は知らない。
元々低いパフォーマンスを1本吸うことによってその低いところまで戻すということを繰り返すのが喫煙生活なのです。
あとは心臓や肺、いたるところの内臓が時々変な痛さでシグナルを出して来ます。



お金も減るし、体調もパッとしなくなる。
何もいい事がない。
コレがタバコの正体であるものの、あの1本吸っている時の静かな時間を人は忘れられないのです。

そしてそれを味わう為にはある程度吸って、体を慣らさないといけません。
僕が思うその期間は3週間。
3週間毎日吸って、本当に美味しく感じるのは次の4週間目です。
すっかり毒で犯され、体の入れ替えが終わった内臓でないと美味しくありません。

そして冒頭でも書いたように今僕は禁煙中でその4週目の週末というわけです。
つまりもう昔のクリーンな人間では無くすっかりあの魅惑の5分間を知っている体なのです。
もし、今まだたまたま手元にタバコの箱があって1本残っていたとしら、迷いなど1ミリも無く、無駄に養ってきた都合のいい偉人たちの言葉、もっと大きい海のような考えで人生というものを考えろとかいう器のでかさを持って来て、いとも簡単に吸ってしまう事でしょう。





気をつけるポイントはまずはとにかく最初の1本です。
可愛い顔してたたずんでいる1mgちゃんと出会ってしまってはダメなのです。
ましてや部屋に入れてしまうなど言語道断です!





さあ、今僕は耐えています。
コンビニは往復で10分も満たない。
店員に132番と告げるだけで、今夜もあのゆったりとした魅惑の時間を味わえるのです。














2018年3月11日日曜日

張りについて


R-1ってM-1とかキングオブコントとかよりも今一番面白いと思います。

昔はお笑いの大会で一番どうでもいい感じだったけど、よく考えてみれば一人で面白くするのって、二人と比べて面白くするまでの時間がすごくかかるという事に改めて気づかされ、見る目が変わりました。

また、一人芸というのがこのR-1という長年行われている大会によって洗練されていったのだとも思います。
実はまだまだここには笑いのお宝がザクザク眠っているような気がしてなりません。

最近少し読んだ本で「張り」ということの重要性を知りました。
はじめはなんの事言ってるのかピンとこなかったけど、読み進めていくうちに確かにそうかもなと思います。

「張り」とはもちろん見た目の肉体的な張りであったり、若さや気持ちの張りでもそうで、張り合いなんて言葉もある。
「頑張る」なんて字面をみても「頑なに張る」ということですから、外的であったり内的要因に負けないで張りを維持するというふうに読み取っても納得のいくところです。
デザインや絵にしても一流のものはピリっとした心地よい張りがある。

だけどR-1、一人だとその「張り」を跳ね返してくれる対象、つまり相手がいない。
二人ならもう一人が受け止めて2倍3倍にしてくれるけど、一人だと面白い事がどこまでも拾われず空中になくなってしまう。

だからあたかもそこに人がいて「え?なんだって?」のあとに架空の人間のセリフを言って張りを作り、会話しているような感じにするしかない。
もともとR-1のRは落語の頭文字のRなのだから、会話方式という芸がまずありきだから当然です。

張りをどういう感じで維持するかが問題であるならば、会話方式は見ている側にとって見飽きているものなので、相当中身が面白くなくては大きな笑いにならないと思います。
ルシファー吉岡、おいでやす小田、河邑ミク、チョコレートプラネット長田、紺野ぶるま、松本クラブ などは全て100点の面白さだったのだけど、会話形式なのでつきぬけた笑いにはならなかったように思います。

その点、すぐに見ている側との張り合いを出せるモノマネは強い。
お客さんの記憶とすぐに張りができるし、「誰もが知っていて誰もが気づいていなかった」というジャンルほど最強のものはない。
とんねるずの細かすぎて〜シリーズがそうなんだけど、ゆりあんレトリィバァの昔の女優はかなり笑ってしまった。
今までこの人で面白いと思ったことはなかったけど、初めて声を出して笑った。

霜降り明星 粗品のフィリップ芸も絵なのですぐに見ている側とイメージの共有ができる。
当然ボケ数での勝負になるが、僕的には絵を使う行為はよっぽど面白くないと一番にはなれないと思っています。

一番盛り上がったのは決勝最終3組残った時にやったおぐのネタだと思います。
出てきて1秒もかからず見ている全員がわかる一体感の笑いがあった。
あの会場全体が同じタイミングでドッと起こる笑いこそが芸人冥利に尽きると思います。

でも優勝したのは盲目の濱田祐太郎で、彼を見て一番考えてしまうのは、やっぱり「自分がこうだったら」だった。
彼の「ネタ」と「自分に置き換えた時の考え」が線路のように二つ並行にどこまでも進行しながら見ていた。
そしてネタは目が見えないあるあるなので、笑っていいんだか、悪いんだかという面白さと罪悪感の間でユラユラする。

さあ、3人の審査となった時には彼を選ぶのか、選ばないのかということになる。
誰もが違和感を感じながら、また世間のタブーの範囲を推し量りながら考える。

そして純粋に笑いの数ではなく「芸」として見た場合、ここは圧倒的に濱田祐太郎ということになったのだろう。
彼と同じことができるかと考えれば当然「できない」になるからだ。




彼の「張り」は「目が見える人たち」ではなく、あくまでも「普通に見ている人」に対してだ。
でも目が見える側はフラットに見ることができない。
目が見える人が多い世間に対しての「張り」はとんでもなくスケールが大きかった。
共感することで笑いは生まれるのに、共感できない笑いで共感を得ていたし、見ている側を深く考えさせることによって存在の質が無限に深まっていった。

R-1はガチの笑いとは別に一人だからこそどこか滲み出る哀愁も含めて大好きです。

それにしても濱田祐太郎の身一つの動きがない喋りだけで勝負している姿は盲目も含めて本当に美しい。
そして意外と端正な顔立ちなので、見たことないけど自分が男前であるというネタもあり何ではないかなあ。





2018年3月3日土曜日

はは〜系

前回の「荒野のギターソロ」に続いて、また前から気になっていたジャンルの事を書きます。

それは「はは〜系」です。

なんのこっちゃわからないと思いますが、順を追って書きたいと思います。

先日、友人から中国の有名な歴史書である史記の中から一つのエピソードを聞きました。
魏の国に家は貧しいが口が達者だった頭のいい「范雎」(はんしょ)という人がいました。
かなり話ははぶきますが、才能や頭が良すぎる人にはよくある事で、魏の国の宰相(当時で言えばほぼその国のトップ)である須賈(しゅか)からあらぬ疑いをかけられてしまいます。



あばらや歯を折られたあげく、簀巻き(すまき)にされて便所に投げられ、みんなから小便をかけられ続けた。








という地獄のような屈辱を味わった男なのですが、番人にあとで礼をするからと逃してもらい、友人を頼って秦という国に逃げて、そこで権力争いを勝ち抜き、秦の国の宰相までなった。

秦の国は范雎のおかげでどんどん強くなり、やがてむかし屈辱をうけた魏の国を攻めようとしたが、魏は攻められたくないので、かつて范雎を便所に放り込んだ須賈(しゅか)を和睦の使者として送る。

范雎は忘れもしない憎き須賈がくると知って、わざとみすぼらしい格好をして須賈の前に現れた。
驚いた須賈は范雎に今はどうしているかと尋ねると「人に雇われ労役をしている」と聞き、かつて自分がしたことを少し悔いたのか絹の肌着を与えた。




そのあと秦の宰相に謁見しようと緊張して赴いた須賈が会ったのはあのみすぼらしい格好をしていたさっきの范雎であった!

絹の肌着をくれた同情心に免じて命はたすけてやる、だが、お前の王である魏王の首をもってこい!

は、はは〜!!





ということで長々とウィキにのっていることを書いてしまったが、ようは取るに足らない者として扱っていた人間が実はすごい偉い人だったので立場が逆転するというよくある設定の元祖なのではないかというお話です。

この設定を「なんでもない奴が実は〜だった話」というまわりくどい言い方ではなく、なにか呼び名があるはずだと思い、調べたがリサーチ不足かもしれないけどはっきりと出てこない。




だからとりあえず正体がわかった時にひれ伏す様から僕は「はは〜系」と名付けておいているのです。

その「はは〜系」に代表的な話と言えばもちろん「水戸黄門」があげられます。
これは、ただのじいさん→水戸の光圀公ということで、切り替えのスイッチボタンとしてのアイテムは印籠になるわけです。
決め台詞は「この紋所が目に入らぬか!」





そして次に有名なのが、「遠山の金さん」
下町の遊び人金さん→北町奉行。
アイテムは桜吹雪の刺青。
決め台詞は「あの晩、見事に咲いた金さんのお目付け
夜桜を、まさか己ら! 見忘れたとは、言わせねえぞ!!」(長い、、。)





3つめは前の二つと比べ少し劣るが「暴れん坊将軍」
貧乏旗本の三男坊→8代将軍徳川吉宗。
アイテムというか証拠は顔。(前に悪人は城で謁見している)
決め台詞は「愚か者!余の顔を見忘れたか!」
しかし、顔で将軍と同じ人物だという証明はかなり弱い気がする。。



そしてまだまだあると思いきや、どうにもこうにも思い出せない。
こんなもんなのかな?「はは〜系」。。。
何と言っても水戸黄門の印象が強烈すぎて、他がかすんでしまっているのかもしれない。

だけどこの「はは〜系」は使い古されながらも、また、話の展開が途中からわかってしまっても安定した面白さがある。
見ている方はあとからひれ伏すであろう悪人や周りの人間をニヤニヤして眺める。
きっと多くの人は日々こういう「いつか見返してやる」思いでいるのだろう。
そして、いたずらやドッキリ大作戦を主役とともに楽しんでいる。

復讐といってはすこし後ろめたい気持ちにもなるが、だいたいにおいて多くの幸せは勝利からなりたっている以上、敬遠せずに素直に認めたい心の動きだ。

これが水戸黄門の方向でばっかり見ているから気づかないかもしれないけど、長い人生知らず知らずに人に恨みや嫉妬を買い、見返してやりたい対象になっている場合もある。

そこで一番始めの范雎の話に戻るが、敵役である魏の宰相は再会した范雎に同情して、絹の肌着を与えたおかげで、あばらと歯を折り、便所に簀巻きで捨てたにもかかわらず、命だけ取られずに済んだ事を思うと、どんな人にもささやかでいいから温情の証を示しておくことが大事なんだと学びます。

まだまだ思考していけば奥が深そうな「はは〜系」はきっと人生の縮図があると思うけど、これを話す時にやっぱりひとくくりに総称する名前が必要だという思いも深めるのです。
勧善懲悪とも違うし、三幕構成とも限らないし、お約束といっては幅が広すぎる。
おそらくしっくりくるのは復讐劇なのかなー?
でもなんかおおまかにくくりすぎるような気がする。

きっと世界中にはこの「はは〜系」がゴロゴロしているのだと思います。
特にギリシャ神話に多そうだ。
そして多くの話はかなり盛っている。
史記を書いた司馬遷も例外ではない。

ポイントとしては過剰なまでなストレスからの過剰なまでの回収です。
当事者としてはたまったもんでないけど。
いずれにしても冷めた人間では体験できないことです。

他に何かみつけたらまた報告します。
そして見つけたら教えてください。


思い出したけど山下清も「はは〜系」ですね。