2018年3月11日日曜日

張りについて


R-1ってM-1とかキングオブコントとかよりも今一番面白いと思います。

昔はお笑いの大会で一番どうでもいい感じだったけど、よく考えてみれば一人で面白くするのって、二人と比べて面白くするまでの時間がすごくかかるという事に改めて気づかされ、見る目が変わりました。

また、一人芸というのがこのR-1という長年行われている大会によって洗練されていったのだとも思います。
実はまだまだここには笑いのお宝がザクザク眠っているような気がしてなりません。

最近少し読んだ本で「張り」ということの重要性を知りました。
はじめはなんの事言ってるのかピンとこなかったけど、読み進めていくうちに確かにそうかもなと思います。

「張り」とはもちろん見た目の肉体的な張りであったり、若さや気持ちの張りでもそうで、張り合いなんて言葉もある。
「頑張る」なんて字面をみても「頑なに張る」ということですから、外的であったり内的要因に負けないで張りを維持するというふうに読み取っても納得のいくところです。
デザインや絵にしても一流のものはピリっとした心地よい張りがある。

だけどR-1、一人だとその「張り」を跳ね返してくれる対象、つまり相手がいない。
二人ならもう一人が受け止めて2倍3倍にしてくれるけど、一人だと面白い事がどこまでも拾われず空中になくなってしまう。

だからあたかもそこに人がいて「え?なんだって?」のあとに架空の人間のセリフを言って張りを作り、会話しているような感じにするしかない。
もともとR-1のRは落語の頭文字のRなのだから、会話方式という芸がまずありきだから当然です。

張りをどういう感じで維持するかが問題であるならば、会話方式は見ている側にとって見飽きているものなので、相当中身が面白くなくては大きな笑いにならないと思います。
ルシファー吉岡、おいでやす小田、河邑ミク、チョコレートプラネット長田、紺野ぶるま、松本クラブ などは全て100点の面白さだったのだけど、会話形式なのでつきぬけた笑いにはならなかったように思います。

その点、すぐに見ている側との張り合いを出せるモノマネは強い。
お客さんの記憶とすぐに張りができるし、「誰もが知っていて誰もが気づいていなかった」というジャンルほど最強のものはない。
とんねるずの細かすぎて〜シリーズがそうなんだけど、ゆりあんレトリィバァの昔の女優はかなり笑ってしまった。
今までこの人で面白いと思ったことはなかったけど、初めて声を出して笑った。

霜降り明星 粗品のフィリップ芸も絵なのですぐに見ている側とイメージの共有ができる。
当然ボケ数での勝負になるが、僕的には絵を使う行為はよっぽど面白くないと一番にはなれないと思っています。

一番盛り上がったのは決勝最終3組残った時にやったおぐのネタだと思います。
出てきて1秒もかからず見ている全員がわかる一体感の笑いがあった。
あの会場全体が同じタイミングでドッと起こる笑いこそが芸人冥利に尽きると思います。

でも優勝したのは盲目の濱田祐太郎で、彼を見て一番考えてしまうのは、やっぱり「自分がこうだったら」だった。
彼の「ネタ」と「自分に置き換えた時の考え」が線路のように二つ並行にどこまでも進行しながら見ていた。
そしてネタは目が見えないあるあるなので、笑っていいんだか、悪いんだかという面白さと罪悪感の間でユラユラする。

さあ、3人の審査となった時には彼を選ぶのか、選ばないのかということになる。
誰もが違和感を感じながら、また世間のタブーの範囲を推し量りながら考える。

そして純粋に笑いの数ではなく「芸」として見た場合、ここは圧倒的に濱田祐太郎ということになったのだろう。
彼と同じことができるかと考えれば当然「できない」になるからだ。




彼の「張り」は「目が見える人たち」ではなく、あくまでも「普通に見ている人」に対してだ。
でも目が見える側はフラットに見ることができない。
目が見える人が多い世間に対しての「張り」はとんでもなくスケールが大きかった。
共感することで笑いは生まれるのに、共感できない笑いで共感を得ていたし、見ている側を深く考えさせることによって存在の質が無限に深まっていった。

R-1はガチの笑いとは別に一人だからこそどこか滲み出る哀愁も含めて大好きです。

それにしても濱田祐太郎の身一つの動きがない喋りだけで勝負している姿は盲目も含めて本当に美しい。
そして意外と端正な顔立ちなので、見たことないけど自分が男前であるというネタもあり何ではないかなあ。





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