2013年7月8日月曜日

グレート・ギャツビー 後編

映画グレート・ギャツビーの感想の続き。

完全におタク的な領域なのでご了承ください。




小説では第一章から九章まであって、もちろんどの章もはずす事ができないのだが、最後の九章が映画では大幅に削り取られていた。

九章でギャツビーはすでに死んでいて、話自体としてはここはなくても一応は成立する。
僕も初めこの小説を読んだ時、八章までところどころクセのある小説だなぁと読んで、ただの古典的なラブストーリーだと思っていたが、この九章で電気が走ったように見方が変わったのを思い出す。

このギャツビーが死んでニックが色々と奔走する所が全く描かれてない。
フランシス・コッポラの映画でもそうだったけど、本当にもったいない。
映画が終わって、夜中の12時も回って駐車場代1.200円も取られた帰り道、僕に撮らせてくれと思った。
もっともっと良くできる。

とは言え、その九章のニックの話がなかったとしても、改めて奥深く色んな所に仕掛けが作られた物語だと思った。
実際2回ほど細かい設定が、またこの映画を見た事によってわかった。
そしてこの小説は名文句だらけで、どこを切り取ってもセリフや言葉が決まっている。
そういう事から時々、名文句のところは英語の文字が3Dでせまって来た。
中でも特に冒頭の「僕が今より若かった頃〜」と最後の「だから僕らは流れに逆らい〜」は重要なので映画でも文章をそのまま朗読されていた。
そしてアメリカ人が思う名文句はこう言う所かと感心したりもした。







僕が特に不満だった箇所をあげたい。
・図書館にいた眼鏡の老人をしっかり立たせて欲しかった。
・屋敷で居候のピアノ奏者がギャツビーの死後、靴を返して欲しいと電話をかけてきたところがない。
・ギャツビーの雨の中での葬式。
・ギャツビーの父親が息子の事を話すシーン。
・ギャツビーが若い頃自分に課していたルール。
・ジョーダンベイカーとニックが車の運転について話すシーン。
・ジョーダンとニックの別れる時の会話のやりとり。
・ギャツビーの死後、街でブキャナンとニックの会話。
・ギャツビーの死後、ウルフシェイムとニックの会話。
・過去、クリスマスで帰郷する時の回想録。
・ニックが今日は僕の(30歳)の誕生日だと言うセルフがあるけど、ジョーダンとの別れを削っては何にも生きてこない。

まあ、ほとんどが九章なんだけど、これを書いていて、これらの事を外したらギャツビーがただただ恋に狂った成金で終わってしまうと改めて思う。
ディカプリオの名演も意味が無くなってしまうし、この映画でグレートギャツビーをわかって欲しくない。
本当に残念だ。

だけど良かった所もいっぱいある。
まずデイジー役の(キャリー・マリガン)女優が素晴らしかった。
この小説のデイジーと言うのは、僕の中で今まで思い描いた物語の女性で一番美しい絶世の美女と言う設定になっている。
それに十分匹敵する美しさがあった。
このデイジーを誰にするかで、成功に終わるか失敗に終わるかがかなり左右されると思う。
なぜならこの最後には裏切ってしまう美女を、ちょっと憎たらしくも許せてしまう存在でなければならないから、キリっとした美人でもダメだし、幼すぎてもダメだ。
本当に見事なキャスティング。
他の登場人物も全部100点なんだけど、唯一ジョーダンの身長がニックを越していたのが気になった。

ディカプリオの演技も100点。
何も言うところはない。
音楽も素晴らしい。
サントラは買う。
所々削られはしたが、それでもよくあの時間内に詰め込んだと思う。

村上春樹のノルウェイの森で主人公がグレートギャツビーを何度も読むクセがあって、どのページを適当に開いても、1ページとしてつまらない箇所はなかったとあるが、本当にその通りだと思う。


映画を見終わったら、あんなに止める所のなくて8F(すいか)まで上った立体駐車場がガラガラだった。

疲れた。
なんでこんなに書いたのだろう。
でもこう言う思いの人は多いと思う。

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