前売券まで買っておいて、2週間くらいほったらかしにしていたグレートギャツビーを見に行った。
今週の金曜日の事で、一応3D対応の映画なので3Dで見なくてはと思っていたが、その日の金曜の夜9時から上映するいわゆるレイトショーが3D最後の上映だったので、やっと見に行く決心がついた。
シネマフロンティアで見たが、もう夜中なのでほとんど人がいなかった。
3D対応の眼鏡は100円で買い取りだった。
次ぎいく時もこれを持って行けばもういらない。
ファクトリーにあるユナイテッドシネマは貸し出しで、なおかつ300円も取られる。
でもあっちの眼鏡の方が近未来的でかっこ良かった。
こっちは見た目ただのサングラスだけど、まあ、だからと言って見え方に支障がある訳ではない。
パンフレットも買って上映15分前に入ろうとしたら、まだ清掃中なので入れませんと断られた。
15分前ってまだ入れないのかと、あまり映画館に来た事がないので引き返したが、10分前になっても断られ、他の客も大勢が断られた。
清掃に時間がかかっているのか、誰かがポップコーンでもぶちまけたかわからんが、結局上映開始時間の9時でようやく入れてもらえた。
時間的に一応、駐車場が12時までなので、ちょっとだけ気になった。
やっぱり上映はそこから15分くらいおして始まった。
その間きた人は17人程度。
席は選び放題。
映画の内容が1920年代の小説が元になっているので、当然若い人はいない。
僕の5席くらい離れた場所に品のいい老婦人が一人座っていた。
これまた品のいいつばの大きい帽子を席に置き、後ろに座っていたカップルに「すぐ戻りますんで、申し訳ありませんが席を見てもらえないでしょうか?」と頼んで、会場の外に出て行った。
席をとっておくも何もガラガラで、何ならもっといい場所に座れるのにと、頼まれたカップルが話しているようだった。
ここで見る人が2タイプに別れる。
当然今言った老婦人なんかは小説を読んでいて、小説のグレートギャツビーが好きな人だと思う。
もう一つはディカプリオのラブストーリーをタイタニック的要素を期待して見に来ている人。
15〜17人くらいしか客はいなかったが、僕が見る限り小説を知っている人はそのうち5人だったと思う。
あとこのレイトショーなる時間帯なのに、かなりの割合で女性2人の客が多かった。
これは完全にタイタニック的ディカプリオ組だと思う。

肝心の映画なんですが、まずは雪が舞いちり、3D効果を楽しんで下さいと言う感じで始まる。
実際本当に雪が迫って来て、うしろに行き去ったかの様な感覚になった。
と同時にギャツビーで雪のシーンなんてない。
そこで小説を知っている人達は、これはもう小説にこだわらないで映画自体を楽しもうと思ってしまう。
今思えば実際そういう事を意識して、始めに雪のシーンを持って来たかも知れない。
なんで雪のシーンからなのかと言うと、この映画のもう一人の主役であるニック・キャラウェイが精神病院で医者とカウンセリングしていて、そこは舞台であるニューヨークではなく、田舎に帰ったニックがアルコール依存症になって療養している設定だから。
そして本編の季節は夏まっ盛りのシーズンで、これから始まる豪華絢爛な映像とその対比を狙ったのだと思う。
このアルコール依存症で療養と言うのは、作者であるフィッツジェラルドが後年、本当にそう言う生活していたのを映画にも入れたのだと思う。
ニックは作家であって、医者に薦められて過去にあったこの物語を書き始める設定は小説にはない。
(僕の中ではニックがニューヨークから去った後は、それなりに苦労しつつも、それなりにまとな生活を送った感じになっている)
なんでアルコール依存症になって、療養しているのかという事を映画では説明されてないし、やっぱり勝手に入れたエピソードだから妙に浮いている。
もしフィッツジェラルドがそう言う設定を入れるとしたら、もっと意味深いものとして本編にからめてくると思う。
余談だが、(このあともほとんど余談だが)作者は短編を良く書いていて、終わり方が不幸な感じでバッサリ終わらせるのが多い中、最近の流行りとしてなるべくハッピーエンドにしてくれと編集者から頼まれる事が多かったらしい。
だからこの話も最後はちょっと強引に希望のある感じで終わらせている。
それが最後の名台詞を生む事にもなったし、彼の墓にも墓碑として刻まれる事となった。
このお話のギャツビーとニックは作者のフィッツジェラルドが2つに別れた人格だと言われていて、村上春樹の2つに別れる小説の仕組みもここから影響が出ていると思う。
若くして小説が売れて、毎夜毎夜湯水のごとく金を使ってパーティーに参加していたり、妻であるゼルダは映画の中のデイジーと重なる。
そういう破天荒な生活とは別に、小説家としてのストイックな野心、と言うか才能をしっかりと形にしたい欲望を持っていた。
このグレートギャツビーはそう言った喧噪のニューヨークを離れ、イタリアだったかフランスへ家族で引っ越して、(多分フランス)毎日静かな書斎でコツコツ書いたものだ。
初めて自分の中の芸術と真剣に向き合った最初で、おそらく異論もあると思うが最後の作品。
ちなみにその間妻のゼルダは浜辺で浮気していりして、そのあと頭がおかしくなり、フィッツジェラルドの介護もむなしく精神病院で死んだ。
この人は多彩な人で絵を描いたり、小説も残している。
フィッツジェラルドも色んな刺激をこの妻から受けて、小説なんかはゼルダから盗作したなどと喧嘩にもなったらしく、この人なくして彼の才能も開花しなかったと言われている。
これらのエピソードなんかは色々な本を読んで記憶に残っているもので、ほとんどがネットや村上春樹の本だが、自分でも今どんどん記憶が蘇って来て、書ききれない。
そういうバックグランドがある人にとって、この映画はやはり物足りなかった。
続く。
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