2016年8月26日金曜日

コンスタンチノープルの陥落 3

この戦争はオスマン帝国がコンスタンチノープルの城壁をどうやって攻略したか?が最大のポイントとなります。

海側からも攻めていますが、海上戦においては一枚も二枚もビザンチン側(東ローマ帝国、ヴェネチア共和国、ジェノバ共和国の連合)の方が上なので、トルコ(オスマン帝国)側としたら陸からの攻撃に重点を置くしかなかったのです。

だけど、3重の城壁は大きさや堅牢さにおいて、当時世界最高峰だったから、攻略は不可能と思われたいた。
実際、この壁は僕も読んでいて、やりすぎだろと思ってしまうくらいすごいものなので驚きました。

3重の構造となっているのですが、その一番外にある壁は正確な大きさはわからなかった。
でもおそらく二番目の内壁が8.5mの高さだから半分の4mくらいだろうと思います。

そしてさらに、三番目の壁の外に堀もあって、海水を引き込んでいたそうです。
でもこの時はもう国力の影響からか、枯れていてただの穴だったので、すぐにオスマン帝国軍に埋められた。










だから多分、始めの方は第3の壁で粘っていたけど、すぐに第2の外壁の方で防戦していたと思います。
ただ、ここからがオスマン帝国もかなり手こずります。
守るビザンチン側の戦力はヴェネチアとジェノバから少し兵力を協力してもらっても7,000弱。
しかもそのうち東ローマ帝国が出した兵士はたった2,000人だった。

それに比べ、オスマン帝国は10万。
この10万という数字は当時の人口からすれば突出したもので、この時代の戦争では兵力が3万も越えれば相当な大戦力だった。

この兵力というのはアジアとヨーロッパでは数の感覚が違います。
ヨーロッパの方では貴族のような特権階級が兵力として占めていた。
これはローマ帝国の影響で、普段の生活が豊かで政治にも参加できるが、いざ国を守る時は義務として戦地に行かなくてはならないという風習があるのです。
そして装備は重装備で、騎馬の技術など、まとまな兵士になるのはそれなりにハードルが高かった。
あとの足りない部分は金で雇う傭兵で構成されていた。
こういう理由で兵士の質は高く、少ない数でも強いのです。

だけど、遊牧民族の流れを組むオスマン帝国やモンゴル帝国の兵士はヨーロッパの兵士と違ってすごく軽装だったそうです。
そして野蛮さも違います。
だから動きが速いかわりに弓矢とかでどんどん死んでいったと思います。
そのかわり、次から次へと倒しても倒してもくるので、相手は疲労により大崩れするのです。
兵士も同盟の国から借りた兵士や、戦争で得た捕虜をイスラム教に改宗させて自軍にするやり方をしていた。
同盟の国と言っても兵士を出さなければ、攻められるから強制的に出しているのであって、その場しのぎの脅しに屈しているのです。
そして、貸した兵士は大きな戦争でほとんど戻っては来ないし、もちろん戦争が終われば、協力した同盟国はあっさりオスマン帝国に攻め滅ぼされる運命にある。






あと、オスマン帝国の兵士はよくわからないけど、袋のようなものを被っている。
あれが何の役に立っているのかわからない。
「オスマン帝国 兵士 装備」で調べたけど、詳しいのは出てこなかった。
でも何となく、トルコはヨーロッパの規律と遊牧民族の野蛮性がちょうど半々くらいなのが、装備にも表れていると思います。

そしてもし第2の壁である外壁が破られたとしても最後には高さ17mがあって、幅も5mある絶対的な内壁が待っている。

城を落とす場合、攻める側は3倍の兵力がなければならないと日本では言われています。
このテオドシウスの城壁は、たとえ7,000対100,000の兵力差があったとしても、もしかしたら対等だったかも知れません。


一応、、続きます。










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