江戸時代の終わり、博多に仙崖和尚という名僧がいました。
いよいよ和尚が最後を迎えようとしたとき、弟子達は遺言をいただこうとすると、
和尚は「死にともない」(死にたくない)と言った。
いやいや、、さすがの名僧の最後に未練がましく死にたく無いでは格好がつかないと、弟子達はふたたび何か言葉を待って、最後にありがたいお言葉が欲しいと言ったところ
「それでも死にともない」
十一歳のときに出家して以来、八十八歳まで修行に励み、悟りを開いた名僧でさえ、この世に未練が残ったという事です。

この話、実にリアルで好きです。
そんな事言うようでは本当に悟りを開いたと言えないなどと思われるかも知れないが、そうではないように思えます。
それとこれとは問題のベクトルが違って、どこまで行っても交わる事のない話なのです。
あと、最後は看取られるより一人にして欲しい人もいると思う。
だけど本当に本当に誰からも尊敬される立派なお坊さんだったのは間違いないと思います。
意味あってこその教えであり悟りであって、「無」の中では何を求めても空しいだけだと思います。
自分が死んで本当にその後の世界が続いている確証はどこにもありません。
そこで何を残そうなどと考える事のできる人はよっぽど人のために何かしようとする人か、自分がかわいいかだと思います。
僕的には突き詰めていけば、人はみんな結局自分を一番に優先させているような気がします。
当たり前と言えば当たり前です。
この名僧の話でも登場人物全部が自分にとって何かを模索しているのです。
和尚は素直に自分がこの世から消えたく無いと言い、弟子達はこれから語りぐさにしたい名言を聞いて伝説の証人になりたいと思っています。
人間、即主観で生きているのであり、客観的な考えをいくら言おうと、始まりが主観の発想から逃れる事ができない。
そう考えると全ての事柄に関して、ある程度許せてしまう。
だって仕方が無いでしょと。
釈迦の前世は餓えた7匹の虎の子に身を投げ出して死んだそうですが、主観で生きないとこういう訳のわからない事をしてしまう。
7匹はその後しばらく生きると思いますが、二度とそんなラッキーな事が起こらなかったでしょう。
そんな出来事があれ以来無いなんてなって俺は不幸なんだとも思うでしょう。
正解は7匹の虎の子達に死ぬ気で食べ物を探してきて与えて、見ないふりをして立ち去ろうとした自分でなくて良かったと安堵すればいいのです。
小さい罪悪感は救済して、大きく手をつけれない物事は避けるでもなく、また受け入れるでもなく中立につきあうしかないと思います。
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