芸森で開催している「すごいぞ、これは!」を見に行きました。
アートの世界は様々なジャンルが枝葉のように別れて複雑になっていますが、その中でもアール・ブリュットというジャンルがあります。
定義は「生の芸術」というフランス語らしく、正規の美術教育を受けていない人が自発的に行った独自のアート。
と言う事になっていますが、実際のところは精神的疾患がある人の創作物の事を言うようになっています。
ここら辺は言葉選びが非常に難しく、何を言っても批判の対象になりやすいので、デリケートな扱いをしなければなりません。
何と言っても僕は一応健常者であり、健常者からの目線でしか物事を考えた事がない。
障がい者の立場になってというのもすでに健常者からの目線でしかないので、あまり深く考えてもやはりズレは大きくなるばかりだとある意味諦めているのです。
要約すれば僕は世界を救う事ができない、と言う、ものすごく格好わるい事をカッコ良く言うようにしています。
まあ、そんな固っくるしい事は抜きにして素直にこの展覧会を楽しんできました。
上の画像を見ればわかる通り、こういう事です。
何かイヤになってしまうでしょう。
この労力たるや、どっと時間を吸い取られて老けてしまうような感覚になります。
基本的に何かの繰り返しを永遠に行う「スゴさ」がどの作品にもあります。
黄金比率が円周率からきているように、宇宙の神秘、生命の根源は永遠に続いてく事を求めている。
そう考えればこの人達のやっている事には本当の美に限りなく近づいているものであり、僕たちはその途方もない神の領域を遠目から少しだけ見る事ができるのです。
全部すごかったのですが、中でもデコトラとか車の模型を厚手の紙でせっせと誰に見せる事なく30年間作り続けた人には驚かされた。
一つ一つが少し粗いものの、正確な比率で模型になっている。
上のような彼の部屋の写真もあったが、この写真こそが彼が何にも干渉されず創作された事を物語るアール・ブリュットそのものだった。
一つ作るだけでも相当時間がかかりそうだが、とにかく部屋中におびただしい数の模型が並んでいる。
改めて思ったが、どの模型も彼の中で大きさが決まっているっぽい。
普通の人ならちょっとスケールの大きいものに挑戦してみようとか、逆に極端に小さいものを作ってみようという考えが起きるはず。
つまり同じ事をずっとやると飽きてしまって、新しい要素を足すのが自然の流れだ。
だけど彼のはどれも決まったスケールで統一されている。
だからクレーン車と消防車の大きさの比率も常に合っている。
その彼が定めた大きさと言うのはどういう大きさなのだろう?
知りたい反面、ちょっと怖い気がする。
何故かと言えば、その大きさは実物と比べてきっと割り切れない数字や、何かの法則にピタリとハマったものがでてくるような気がする。
いや、おそらくそうなんでしょう。
「怖さ」にはこういった種類のものもある。
他には紙をはさみで端から毛のように細く切り刻む人の作品があった。
出来上がったの言えばこんなのです↓
コレに関しては特に美しさは感じません。
ただもの凄く究極に細く、紙の繊維のように切られた紙は全部は切らず、片方を残したまま、すだれのようになっています。
このいつ失敗してもおかしくない緊張感を通常の人が保てるはずがない。
このスペースには彼の作業風景の動画もモニターで流れていた。

そこには作家である障がい者の人が近くにある4本ある椅子の足の一つに自分の片脚だけを下に入れて、細かくゆらしてバランスをとっている。
そして凄まじい集中力で紙をはさみで切っている。
きっとあの足でゆらしている椅子は「あの椅子」でないとダメなんだろう。
その後ろで時より父親であろう人物がコーヒーを入れている。
特に会話もなく母親も出てくるが、干渉はしない。
これさへやらせておけばおとなしくしている子供。
そして彼をずっと見守り育ててきた親。
そういう空間や時間など全て含めてアール・ブリュットと言っていい。
コレに関しては作品そのものではなく、どのようにして作られているかということが大事なようです。
実際この動画を見ないと何がスゴいのかピンとこない。
そのフニャフニャに切り刻まれたゴミのようなものをショーケースに入れて作品としたのは紛れも無く周りの人達です。
彼らに作品を作るという概念はないそうです。
何かにやらされている訳でもない、かといってやりたいからやっているのでもない。
ただそれをやらざるを負えないからやっているのだと思います。
他にも写真を触り続けてそのボロボロになったモノが作品になっている人もいます。
何の事って思うでしょう?
人を驚かしたり、ビックリさせたり、感心させたりするのも「芸」ですが、「呆れさせる」のも芸だと思います。
これはこれを選んで作品とした選考委員の人を全部含めて作品と言っていいかも知れない。
なんて言ったって無意識に触っていただけでアートとなるのだから。
でも確かにずっと作品を見ていると何とも言えないノスタルジックな気持ちになります。
そしてそれは削られて浸食が進み、壊れ物としてのはかなさがある。
過去を頭の中で映像にすると、もしかしたらこんな感じかもしれないとも思った。
昔の自分の写真、つまり過去の物を現在の自分がずっと触り続ける。
過去はどんどん不鮮明になり、「今」であるキズが真新しくぽっかりと白で残る。
そう言った時間の対比はわかりやすいかも知れない。
などと、後から意味を持たせるのはいつもこっちサイドの人間です。
それにしてもどれだけ触っていたらこんなに角が丸くなるんだろう。
ここにも呆れるほどの「永遠」がある。
この展覧会に選ばれた12名は全国から文化庁と心揺すぶるアート事業実行委員会よって選ばれた人達です。
国がしっかりとこういう方達に力を入れ始めた事は嬉しく思います。
彼らは名声などに興味はなく、自らをアピールする行動をおこす事がない。
どこから作ったものが作品になるかと言えば、周りの人が動いて世間の人に見せてやって初めて作品となる。
そういった珍しい参加型のみんなで支えるアートなのです。
そして彼らの時間は瞬間移動したかのようにあっという間に過ぎたはず。
誰かが言ってた「永遠とは一瞬の事」というのはこういう事かも知れない。
そう考えたら、いつも足りないと思っている我々とは真逆の空間を過ごしているのかもしれない。
ちなみにせっかく紹介したのはいいが、今月の25日で終わってしまいます。
入場料は500円なので安いです。
だけど駐車料金500円もしっかりとられます。
森に入るお金、「森代」です。
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