それは彼の中で特に人気が高い曲「落陽」です。
これも舞台は北海道で作詞はもちろん岡本おさみです。
落陽
しぼったばかりの夕陽の赤が
水平線からもれている
苫小牧発・仙台行きフェリー
あのじいさんときたら
わざわざ見送ってくれたよ
おまけにテープをひろってね
女の子みたいにさ
みやげにもらったサイコロふたつ
手の中でふれば
また振り出しに戻る旅に
陽が沈んでゆく
女や酒よりサイコロ好きで
すってんてんのあのじいさん
あんたこそが正直者さ
この国ときたら
賭けるものなどないさ
だからこうして
漂うだけ
みやげにもらったサイコロふたつ
手の中でふれば
また振り出しに戻る旅に
陽が沈んでゆく
サイコロころがしあり金なくし
フーテン暮しのあのじいさん
どこかで会おう 生きていてくれ
ろくでなしの男たち
身を持ちくずしちまった
男の話を聞かせてよ
サイコロころがして
みやげにもらったサイコロふたつ
手の中でふれば
また振り出しに戻る旅に
陽が沈んでゆく
メロディーが完璧であるならば、歌詞も負けず劣らず良い。
何がいいって、出だしが最高。
しぼったばかりの夕陽の赤が
水平線からもれている
と始まるが、この「しぼったばかり」というフレッシュさからくる爽やかさと、しぼる時に込められる力強さ、しいては男強さがとんでもなく真っ赤な夕陽を連想させる。
そして
苫小牧発・仙台行きフェリー
この具体的な地名が遠い旅の心情を感じさせるし、何と言っても言葉の一つ一つがメロディーにピターっとひっついている感じがする。
だからここの部分はついつい声に出したくなる。
改めてこの出だしの三行がものすごく秀逸。
小説も出だしの言葉がすごく大事だけど、まれに見る名文句と個人的に思っています。
あのじいさんときたら
わざわざ見送ってくれたよ
この中の登場人物は二人。
港から見送るじいさんとフェリーに乗って帰る若者(歌詞に年齢は出てこない)。
おまけにテープをひろってね
女の子みたいにさ
ここの「女の子みたいにさ」とはどんな状態の事を言うのか、何となくだけどカッコなんてつけず、無邪気に別れを惜しむ様子だと思う。
きっとじいさんはなりふり構わずに若者から伸びるテープを見つけて掴んだに違いない。
みやげにもらったサイコロふたつ
手の中でふれば
また振り出しに戻る旅に
陽が沈んでゆく
そして若者の手にはそのじいさんから別れの時にもらったサイコロがある。
まだこの時点では何故サイコロを貰ったのかはわからない。
ただ「サイコロ」と「振り出しに戻る」がかかって、今回の旅がまた終わり、新しく始まろうとしているのがわかる。
状況としてはこんな感じか
さきほども言った通り、登場人物はじいさんと若い旅人だけ。
女っ気なし。
年の違う二人の友情という、ヒットソングになりにくいテーマだ。
そしてここから本題と言うか、僕が疑問に思っているところです。
2番。
女や酒よりサイコロ好きで
すってんてんのあのじいさん
ここでじいさんの説明が入る。
ごらんの通り、どうしようもない人物だとこんなに短く要約されている。
「すってんてん」なんてリズムのいいダメさ加減は奈落の底もいいところだ。
ちょっと余談だが、「女や酒よりギャンブルが好き」と言うのは少し言いたい事がある。
あたかもギャンブルさへあれば他に興味がないと思われるが、ここは違う。
順位としてこうだ
本当は女が一番いいに決まっている。
そして当然、酒にも女にもお金がかかる。
それにはまずギャンブルで勝たなくてはならない。
だからステップアップの段階として一番底辺にいるがギャンブラーである。
と一般論では言いたいのだが、ここに出てくるのはじいさんであり、詩の世界観的にサイコロは人生をかけれるスリルやワクワク感という意味で使われている。
ただ何となく個人的に言いたかっただけです。
話がそれたが次に
あんたこそが正直者さ
とくる。
以下、最後まで詩を見たらわかるが、この「正直者」という言葉だけ、これだけが唯一じいさんの良い所として持ち上げられている。
そして
この国ときたら
賭けるものなどないさ
とくる。
これはもちろん若者の言葉だ。
じいさんと間に何があったか知らないが、何か意気投合する部分があったのだろう。
じいさん=正直者。
という図式から真面目にやってきた人間が社会から簡単に見捨てられてしまうのを言っている。
それを「あんたこそが正直者さ」とこんな短い言葉に詰めれるのが詩の面白いところだ。
そして「この国ときたら賭けるものなどないさ」と若者は愚痴る。
つまり一個人が掴めるビッグチャンスはもうないと言うことだ。
経済成長は見掛け倒しの平等をくれて、不動の格差が生まれた。
こうやってふてくされるのは本来格好わるいのだが、何故かそんなに格好わるくない。
何故か、
それは単純に少し反社会性があるから。
世の中を変えてやるんだというやる気は良いのかもしれないが、実は反発して注目してもらったり関わり合いを持とうとする若さ特有のものがある。
この箇所が旅人が若い人だと断定できる部分かな。
だから簡単に言えば怒りがある。
真っ赤に夕陽の中で悔しがる情景は誰しも人生で味わう屈辱感として共感される。
だけど彼はどうしているか、
だからこうして
漂うだけ
「漂うだけ」なんです。
ほとんどの人がそうであるように、これしかないのです。
何となく諦めの境地に入っている。
そしてまたサビがくる
みやげにもらったサイコロふたつ
手の中でふれば
また振り出しに戻る旅に
陽が沈んでゆく
繰り返しになるが、若い彼は失敗してもリセットされるだけで次(振り出しに戻る旅)があるのです。
そしてラストの3番。
サイコロころがしあり金なくし
フーテン暮しのあのじいさん
ここでさらにじいさんのダメさ加減を上乗せしてくる。
さっきも「すってんてん」と文無しの説明がなされているのにも関わらず、「あり金なくし」と強調されている。
なので聴いている方としては「ああ、本当にもうどうしようもない奴なんだ」と思ってしまう。
そして新しいキーワード、フーテンが入ってくる。
フーテンとは寅さんでおなじみの言葉ですが、決してホームレスではありません。
将来のアテもなくその日その日のテラ銭で気ままに生きている、まあ、、ゆるいダメ人間と言う扱いでしょう。
なので、この出だしの2行はダメの上にダメと言っているようなもんだ。
どこかで会おう 生きていてくれ
旅立つ船の上で若者は別れを惜しむ。
「生きていてくれ」とはじいさんの将来が決して明るいものでは無い事を意味する。
ろくでなしの男たち
身を持ちくずしちまった
そしてとうとう言ってしまう。
「ろくでなし」と。
全てを失ったロクデナシと。
男の話を聞かせてよ
サイコロころがして
さきほど「正直者」を唯一じいさんを褒めた箇所と言ったが、最後に彼とじいさんの間でかわされた「男の話」も何かじいさんの良い所だったのだろう。
この「男の話」を聞いて共感したからこそ年の差が離れた友情が生まれた。
じいさんが女の子みたいに別れのテープに駆け寄るほど別れを惜しんだ絆。
みやげにもらったサイコロふたつ
手の中でふれば
また振り出しに戻る旅に
陽が沈んでゆく
ちょっと誤解していたのだが「振り出しに戻る旅」をいつも「振り出しにもどる度(たび)」だと思っていた。
ここは割と意味が変わってくるから気をつけたい。
老人と若者の間にある差は紛れも無く「時間」だ。
じいさんは終わった人、若者はこれからの人。
若い彼はまた振り出しに戻れる。
でもじいさんにはそんな機会はもう巡ってこない。
同じ見る夕陽でも終末と見えるのか、再生ととれるのかの違いを表現している。
この対比を表した文学性は素晴らしい。
そして散々悪く言ったどうしようもない老人の「男の話」とは何だったのだろう?
ここはあえて探りを入れない方が無限の広がりがあるので、「男の話」で理解していいかもしれない。
ただ、じいさんから貰ったサイコロには「意思」がある。
そして若者はその「意思」を受け継いで行く。
その「意思」こそ「男の話」の内容かもしれない。
と、物語はキレイに終わりそうだが、、、
もう一度、じいさんの人間像を見てみよう。
・女や酒よりサイコロ好きですってんてん
・サイコロころがしあり金なくしフーテン暮し
・ろくでなしの男たち身を持ちくずした
申し訳ないが、彼がどんな「男の話」を言おうと、やっぱり説得力のかけらもないんじゃないかと思う。
それが今回、僕の言いたかった疑問です。
あれだけじいさんと言うキャラを下げてしまっては取り返しがつかないだろうと思っていたのです。
だから結論から言えば、やっぱりじいさんに同情する部分はないし、何を吹き込まれたか知らないが、若者も大した奴じゃないと思った。
でも岡本おさみの表現したかったのは終わりと再生の対比だったから、あまり細かく考えないでいいと思います。
曲ありきの詩なので、大まかな印象が伝わればいいのだし、それは聞く人それぞれの言葉となるに違いない。
一応、じいさんをフォローするなら苦渋を舐めたからこそ、その「男の話」ができるのかもしれない。
と、しておこう。。
50代後半から60代の男性はカラオケで涙を流しながらこの歌を熱唱するという。
彼らは若者からじいさんになろうとしている。
そこまでの境地になってこそ本当の意味がわかるかも知れない。
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