日ハムの優勝パレードが日曜の午前中に行われた。
北海道だけだと思うが、NHK教育テレビとテレビ東京以外、民放4局は全部このパレードを生中継していた。
これは野球中継と違って、球団と契約をしなくても勝手に外で行なわれているものなので、タダで放送していいのだろう。
それにしても日曜の10:00から放送されているワイドナショーが見れないし、正直日ハムに関しては僕的にもういいかなってなっています。
あれだけコーフンさせられた試合を何度も見せてくれて、どっぷりファイターズの事ばかり気になっていた今シーズンだったが、リーグ優勝、ビールかけ、日本一、ビールかけと何度も人が喜んでいる風景を見させられると、ふと我にかえる。
俺は何にも幸せになっていない。
これが社会的強者に対して、弱者が妬み嫉みなどの精神状態に陥ってしまうやつか。
誰かが幸せになれば誰かが不幸になっているという仕組みを考えてしまう。
待てよ、嫉(そね)みがあるが、妬(ねた)みはないかもしれない。
妬(ねた)みは「相手を羨ましく思い、悪意に感じること」
嫉(そね)みは「相手を羨ましく思い、劣等感を感じること」
いや、いや、そうか、もう一回考えると、僕は「嫉(そね)み」の「劣等感」を感じる事によって、原因である歓喜のファイターズに少しイラっとしてしまい、「妬(ねた)み」の「悪意」に発展しているな。
だから「妬み」と「嫉み」はセパレートすることができない。
「妬み」が生まれれば、「嫉み」も生まれ、「嫉み」が生まれれば、「妬み」が生まれる。
「妬み嫉み」とはこれで一つの言葉なのだ。
ゲスの極み乙女の川谷が「誰に謝ればいいのか」という発言をして再び炎上していたが、実は結局のところ人ではなく、世の中に蔓延している妬み嫉みに謝なければならないので蟻地獄のように解決の方法はない。
初代ローマ皇帝アウグストゥスは暗殺されないように、自分は絶対権力者ではなく「市民の第一人者」という立ち位置を好んで使った。
ニーチェは人は目の前にあるささやかな幸せを感じましょうという。
ねたみたくもなく、そねみたくもない。
要するに孤独のグルメをやってろっていう事です。
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